身体を通して体験することの意味── 稽古に、レッスンに……

大学院在籍中の私は、教師としてのあり様、また、子どもの身体教育のあり様としてのオルターナティブを模索した。

清水博著『生命知としての場の論理』(中央公論社 1996年)に感化され、柳生新陰流関西柳生会に入門した。「〈真の自然体〉とは何か?」という問いと向き合うこととなった。

〈真の自然体〉といわれる「無形の位」は、これでもかというほどグッと腰を入れ、「乳幼児が、初めて立った時のような姿勢」を意識して作るのである。最初は腰痛持ちの私にはかなりきつかったが、慣れてくると確かに(はら)の働きが感じられるようになった。実のところ、居合い帯がうまく巻けた時と、しっくりいかなかった時とでは、肚の働きが違うと感じられたのであるが、それは私だけだろうか。

時を同じくして、鈴木晶子先生の教育学ゼミでは、柳生宗矩著『兵法家伝書』(岩波文庫 2003年)をテキストに「技」の探求がなされており、平成22年の日本教育哲学会で発表した「技と術」の研究を深める契機となったのだが、第10章で触れてみたい。

さらに体育教師としての私が惹かれたのが、竹内敏晴著『ことばとからだの戦後史』(ちくま学芸文庫 1997年)だった。第4章において少し触れたが、何十人・何百人もの生徒が「体育座り」をして、こちらに視線を向けている姿、場に気持ち悪さを感じることのある私にとって、「体育座り」を批判する竹内先生の身体論に共感したからだ。

竹内先生の主催する「ことばとからだのレッスン」に参加し、(間)身体性について体感・思慮する機会を得た。二人組で行う「からだほぐし」では、人の体を肉(体)、物体として扱うことと、人の身体としてほぐしを行うこととの違いに、体育教師として、身体理解とほぐしの技の必要性を考える機会ともなった。

これら大学院時代の体験は、教育や身体についての、それまでの現場における見方をゆさぶり、変革を迫る貴重な学習となり、教師生活の一つの節目になった。

学校現場に戻ると、「体育座り」は、その必要性についても理解が進むこととなった。多人数の生徒が、ただただ傾聴するための姿勢としては有効であり、生徒自身もそういうものとして理解しているようだった。

対極にあるものを知ることによって、その両義的な意味合いがより色濃く見えるようにもなることをあらためて痛感することになった。