徹底した〔管理主義〕への抵抗感──教育相談の充実を図るが……

大学院生活を終え、2年間の休職の後に学校現場へ戻るのに際し、特殊な島に赴任することを自ら希望した。

その特殊性については大きなニュースとなって耳にも入っていた。島の火山が噴火し、全島避難を余儀なくされ、4年5カ月経って帰島することになり、それに伴い開校する学校だった。

まだまだ火山ガスの噴出は続いており、「ガスマスク携帯義務」という戦時下でもあるかのような状況だった。

生徒たちからは、「火山岩が降ってきて、道路に穴が空くような中を、命からがら避難した」などという恐ろしい話が聞かれ、4年5カ月という時間によって、だいぶ沈静化したのだなぁ、という思いは持つことができた。

それでも、朝目覚めると部屋中に硫黄の臭いが充満していて、目がぐしゃぐしゃで涙が止まらない、というようなこともあったり、過酷な生活環境であることは否めなかった。

元々は3つの地域にそれぞれ1校ずつ中学校があったのだが、それが統合され、一つの中学校となっていた。地域間の確執という問題よりは、やはり避難先、多地域のさまざまな文化に触れて戻ってきた、それに伴う価値観の違いが大きいように思われた。

元々は超〔管理主義〕的な学校運営がなされていた島でもあり、本土の空気を吸って戻ってきた子どもたちには、窮屈に感じられているように思われた。

しかも火山ガス発生の警報が鳴ると、屋外は当然のことながら、密閉されていない体育館での活動も禁止されていた。そのストレスやいかばかりだったろうか。

そんな中、かつての学校文化を取り戻すべく〔管理主義〕を強化する指向は強かった。

細かいことでは、女子生徒のスカート丈が短かったり、上履きのかかとを踏みつけていたり、そうしたことへの注意・指導はその都度行われ、生活指導の教員のみに任せるのではなく、全教職員をあげて行おう、との体制が謳われていた。

一人の生徒がかかとを踏みつけて階段を上がっていくのを見つけると、階段の下にいる複数の教員が、「かかとを踏むな!」、「上履きをちゃんと履きなさい!」と一斉攻撃を仕掛ける。

そんな具合で、まさに「蠅叩き」状態だった。どうにも生理的に受け付けられなくなっていた私は、その輪に加わることができずに、批判される言葉を耳にしたこともあった。