エリザベスのこの感想について宗像は衝撃を受けた。これは、昔、自分を見捨てた母親に対する、言い訳無用の憤りということなのだろうか?
しかし多くの女性にとっては、たとえごく普通の関係だったとしても、ある年齢になると、母と娘との関係は身近にいる同性の最大のライバルだと言う人もいるくらいである。
いったん、その美しさに耽溺してしまえば最後、冷静な客観性など失われてしまうのが、女性に対する男の感情というものだろう。男の側からは決して見取ることのできない女性特有の感覚がこのようなことなのか?
コジモ・エステは、エリザベスと宗像とのやりとりを、例の二つの目をいったん大きく見開き、瞬きを繰り返した後、徐々に細めながらじっと静かに聞いていた。
絵の中に描かれたアンナの顔と、その前に佇むエリザベスの横顔とを見比べ、奥深い眼窩の中心で青色の瞳を光らせ、わずかな動きだが何度も頷いていた。
ギャラリー・エステを出ると夜十一時を回っていた。フィレンツェのような歴史都市の夜は、オレンジ色の光を投げかける街灯も疎らでかなり暗い。
ベンチ通りを右折し、グラツィエ橋を渡り、アルノ川に沿って西行し、グイッチャルディーニ通りを直進するとポルタ・ロマーナ広場である。
エリザベスはハンドルを固く握り締め、ホテルに着くまで沈黙を押し通していた。宿はコジモの指示で予約されていた。アルノ川の南岸、ボボリーノの森の中にあるかつての貴族の館グランドホテル・ヴィラ・コーラだった。
車寄せにメルセデスを横付けしたエリザベスは、「今晩は一人にさせて」と言葉少なに語り、チェックインすると、すぐ自分の部屋に閉じ込もってしまった。
※本記事は、2020年8月刊行の書籍『緋色を背景にする女の肖像』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。
【登場人物】
宗像 俊介:主人公、写真家、芸術全般に造詣が深い。一九五五年生まれ、46歳
磯原 錬三:世界的に著名な建築家一九二九年生、72歳
心地 顕:ロンドンで活躍する美術評論家、宗像とは大学の同級生、46歳
ピエトロ・フェラーラ:ミステリアスな“緋色を背景にする女の肖像”の絵を26点描き残し夭折したイタリアの天才画家。一九三四年生まれ
アンナ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラーの妻、絵のモデルになった絶世の美人。一九三七年生まれ、64歳
ユーラ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラの娘、7歳の時サルデーニャで亡くなる。一九六三年生まれ
ミッシェル・アンドレ:イギリス美術評論界の長老評論家。一九二七年生まれ、74歳
コジモ・エステ:《エステ画廊》社長、急死した《ロイド財団》会長の親友。一九三一年生まれ、70歳
エドワード・ヴォーン:コジモの親友で《ロイド財団》の会長。一九三〇年生まれ、71歳
エリザベス・ヴォーン:同右娘、グラフィックデザイナー。一九六五年生まれ、36歳
ヴィクトワール・ルッシュ:大財閥の会長、ルッシュ現代美術館の創設者。一九二六年生まれ、75歳
ピーター・オーター:ルッシュ現代美術館設計コンペ一等当選建築家。一九三四年生まれ、67歳
ソフィー・オーター:ピーター・オーターの妻、アイリーンの母。
アイリーン・レガット:ピーター・オーターの娘、ニューヨークの建築家ウィリアム・レガットの妻。38歳
ウィリアム・レガット:ニューヨークでAURを主催する建築家。一九五八年生まれ、43歳
メリー・モーニントン:ナショナルギャラリー美術資料専門委員。一九六六年生まれ、35歳
A・ハウエル:リスボンに住む女流画家
蒼井 哉:本郷の骨董店《蟄居堂》の店主
ミン夫人:ハンブルグに住む大富豪
イーゴール・ソレモフ:競売でフェラーラの絵を落札したバーゼルの謎の美術商