そして、そうした反〔管理主義〕的な姿勢を正当化しようとしていた時期でもあった。3年間の大学院在学期間を経て執筆した『修士論文』においては、その場で注意・指導しなかったことに対して、一切迷いはなく、正しい判断をしたと結論づけている。
教育学系の臨床教育学ゼミでこの事例を発表した際も、「間違ったことはしていない」、むしろ、「当然のこと」という反応が大半を占めていた。
また、京都大学で開催された「教育懇談会」の席では、その日のテキストが徳永正直著『教育的タクト論』(ナカニシヤ出版 2004年)であり、そうした場で発表したこともあって、この場面で「タクトが働いた」と評価された。
一方で、心理学系の臨床教育学ゼミにおいては、皆藤章先生から「『なぜ指導しないのか』と言った先生たちは、『教育』のことをよくわかっているのだな」と諭されるように指摘を受けた。
「『教育』の自明性」を示唆された場面だったが、腑に落ちた感じはなかった。その後、さまざまな経験を経る中で、「『教育』のことをよくわかっている」というこの言葉が、私の中で増幅してきているのも確かだ。
ところで、教育哲学会という場における発表ゆえ、日頃は発信できないような〈神〉に関する思索を提示してみた。
「『教育懇談会』の席において、和田修二先生は、『この時、迷ったのではないか?』と問い、『数秒間、迷ったと思う』という返答に対し、『迷った時には、〈神〉との対話が大事』と説かれた。
この言葉は、私の身体に刻まれ、常に問い続けられてきた。ここでいう〈神〉は、キリスト教のような一神教の〈神〉ではなく、むしろマルティン・ブーバーが『我と汝・対話』(植田重雄訳岩波文庫 1979年)において語った『永遠の汝』のイメージを強く持つが、〈神〉をどのように位置づけるのか、公立学校という公教育の現場において、どのように語ることができるのか、
──同時に、〈神〉と対話する主体としての『教師のあり様』とは、どうあるべきなのか、──その時をして『無心』と言えるのか、──だとした時に、教師のエゴは、働かせてはいけないものなのか、あるいは、エゴは破滅への道なのか、
──今後の課題とし、置かれた現実のただ中にあって、哲学していきたい。」