いきなり、聡子の右の掌が頬に飛んできた。彼女の性格から全く予想もつかない振る舞いであった。女性の方から精一杯の態度を示しているのに、それに応えることもなくいやらしい顔をして笑っていることが耐えられなかったのだろう。
以前にもあったが、全く予期していなかった出来事に対し今回のような表情を示したり、突然の嬉しい言葉に全く意を介さない反対の言葉を口にすることがあった。
聡子に対していつも全てが欲しいと思っていた。しかしできれば結婚したい相手であり、どうしてもそこまではいってはならないという気持ちが強く働いていた。
すぐにでも彼女の部屋に入り抱きしめたい気持ちが高ぶっていたが、あえて落ち着き払った格好を見せたかったのかもしれない。
「じゃあ、俺帰るから」
言い残してその場を立ち去った。
夏に、お盆休みで聡子は田舎に帰って来た。自分は九州に一カ月かけて旅行をしたり、大口と千曲川をボートで下ったり、また友達と朝方近くまで遊びほうけていたりして聡子とは会うことができなかった。
それでも彼女が帰るときに送って行くことを約束していた。しかし当日の十時過ぎ、彼女の家まで迎えに行くことにしていたが起きられなかった。明け方近くまで高校時代の友達と夜釣りに出かけていたのだ。
「うわー」と叫びながら階段を急いで下り、受話器を手にした。
「すいません。伊庭ですが聡子さんはいますか」
「一時間半ほど前にお父さんと駅まで行きましたが。待っていたんですけどね」