別れとリハビリテーション
十一月半ば、長兄から告げられた。
「うちに入るのはいいが、先の可能性も考えて柏崎市の寺泊にある施設で『白岩の里』と、伊東市にある国立の療養所への入所を申し込んであるから、どちらかに行けたらその気はあるか」
「うんいいよ、なんとかやってみるよ」
平静を装って答えたが内心は嫌で嫌でたまらなかった。どういう施設かよく分からないが一生そこで仕事をすることもなく暮らすことになるのだなと諦めの心境だった。というよりも無理やり自身を納得させようとしていた。しばらくして電話があった。
伊東の療養所に十二月頭か末には入れることになったとの連絡だった。知人を介して衆議院議員の高鳥先生からお願いして決まったことも話してくれた。翌々日、高鳥先生から手紙をいただいた。達筆な書の心温まる文面で、励ましの文言と入所が可能になったことを伝えた文章であったが、感謝はしたものの喜びはなかった。
申し訳ない気はしたが、どうしようもなかった。そんなある日、津久田先生と関口先生に呼ばれた。予想もしない話であった。N大学の脳研究所へ研究生として月一回勉強のため訪れている鶴岡先生から、大学で一人探しているという話であった。
もちろん給与はなく勉強が主体で、手術前後の患者さんの検査を担当してもらえる人が欲しいとのことであった。さらに津久田先生は、そこで数年仕事と勉強を重ねたらその先が開けてくるかもしれないとも言ってくれた。
どうなるか分からんが面接だけでもさせてもらうか、という内容であった。目の前に伊東の療養所行きが迫っていたこともあってその日の夜長兄に電話した。まだ結果も得ていないのに新潟に行けるかも、しかも勉強ができるかもと、走り回りたいほどの喜びを全身で感じていた。
翌日、関口先生に会いN大学での面接の可能性について聞いてみた。自分もはっきりしたことは分からないが言語治療士が欲しいことは確かだと思える、と言ってくれた。その上で戻り際に、
「今大変かもしれないけど、将来怪我をして良かったと思える日が来るかもね」
笑顔を交えた明るい声で話してくれた。表情を変えないで聞いていたが、正直心中穏やかではなかった。励ましの意味を含めて言ってくれたことは理解できたが、この体で四年以上苦しんできている患者に言う台詞であろうか? 咄嗟に思った。
馬鹿なことを言うな、とも心の中で呟いた。たとえどのような人生がこの先来ようが、手も足も利かずベッドに仰向けにされたら寝返り一つ打てない体で、健康なときに勝る生き方があるわけがない、と強く思ったからである。