「でも今ではすっかり変わってしまっているのでしょうな? そこで、彼らとは久しぶりの再会だった。あのショックから立ち直ってくれることを願って訪問したが、状況はあまり変わらなかった。いや、それよりも悪化したようだった。ピエトロの酒量は更に増え、まさにアル中の一歩手前だった。一日中アンナさんに難癖をつけ、辛く当たる毎日だったらしい。
創作活動に関しても、その後全く進展なしだった。画材道具は梱包されたままで、ただ一枚の絵を描いた痕跡すらなかった。おまけにピエトロはアンナさんのようにポルトガル語は話せない。ますます孤独の罠にはまり込んで抜け出せなかったようだ」
「生活はどのようにして?」
エリザベスが尋ねた。
「それまでの絵がかなり高く売れていたし、持ち合わせは充分あったはずだ。それに物価の安い土地だ。収入がなかったとしても、堅実に暮らせば二十年や三十年は食いつなげたはずだ。私もその後、多少だが仕送りをさせてもらった。スケッチなどが何点か売れたんだ。ドル箱の画家を失って、ギャラリー・エステとしても正直痛手だった。でもロイドやその紹介による他の画商との取引がかなりあって、経営はまあ何とか順調だった」
「スケッチはたくさんあったのですか?」
「いや、彼はスケッチを表に出すのをあまり好まなくてね。それでも十数点はあったかな。年が変わって一九七二年。フェラーラとはたまに電話でやりとりするだけになってしまった。
関係がだんだん疎遠になり始めた頃、突然アンナさんの電話を受けた。受話器を通して聞こえてくる彼女の声には、格段取り乱した態度は感じられなかった。でも話は驚くべき内容だった。『十日前にピエトロが亡くなった』ということだったのだからね!」
「死んだとは? どのような最期だったのですか?」
エリザベスは身を乗り出して尋ねた。
※本記事は、2020年8月刊行の書籍『緋色を背景にする女の肖像』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。
【登場人物】
宗像 俊介:主人公、写真家、芸術全般に造詣が深い。一九五五年生まれ、46歳
磯原 錬三:世界的に著名な建築家一九二九年生、72歳
心地 顕:ロンドンで活躍する美術評論家、宗像とは大学の同級生、46歳
ピエトロ・フェラーラ:ミステリアスな“緋色を背景にする女の肖像”の絵を26点描き残し夭折したイタリアの天才画家。一九三四年生まれ
アンナ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラーの妻、絵のモデルになった絶世の美人。一九三七年生まれ、64歳
ユーラ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラの娘、7歳の時サルデーニャで亡くなる。一九六三年生まれ
ミッシェル・アンドレ:イギリス美術評論界の長老評論家。一九二七年生まれ、74歳
コジモ・エステ:《エステ画廊》社長、急死した《ロイド財団》会長の親友。一九三一年生まれ、70歳
エドワード・ヴォーン:コジモの親友で《ロイド財団》の会長。一九三〇年生まれ、71歳
エリザベス・ヴォーン:同右娘、グラフィックデザイナー。一九六五年生まれ、36歳
ヴィクトワール・ルッシュ:大財閥の会長、ルッシュ現代美術館の創設者。一九二六年生まれ、75歳
ピーター・オーター:ルッシュ現代美術館設計コンペ一等当選建築家。一九三四年生まれ、67歳
ソフィー・オーター:ピーター・オーターの妻、アイリーンの母。
アイリーン・レガット:ピーター・オーターの娘、ニューヨークの建築家ウィリアム・レガットの妻。38歳
ウィリアム・レガット:ニューヨークでAURを主催する建築家。一九五八年生まれ、43歳
メリー・モーニントン:ナショナルギャラリー美術資料専門委員。一九六六年生まれ、35歳
A・ハウエル:リスボンに住む女流画家
蒼井 哉:本郷の骨董店《蟄居堂》の店主
ミン夫人:ハンブルグに住む大富豪
イーゴール・ソレモフ:競売でフェラーラの絵を落札したバーゼルの謎の美術商