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血の糸

沖田刑事が帰ろうとすると、奥さんは背後から言った。

「でも、私は、やはり夫を信じているんです」

沖田刑事は、警察署の二階にある刑事課の机に腕を組んで、険しい目で黒板を睨んだ。

二宮啓子が殺害されたのが、6月29日。その1ヵ月後に若山洋子が殺され、それから4ヵ月を過ぎたが、いまだ捜査は難航している。

二宮啓子殺しの方では、30人近い容疑者が捜査線上に浮かんだが、よく調べてみると、全員が疑わしいところはない、ということで消えていった。

一方、若山洋子殺しに関しては、捜査線上に最後に残ったのは、早川岩雄。それにまことに辛いが、香村良平であった。早川の足取りは、いぜんとして皆目掴めない。

この地方では、凄腕と称せられる沖田刑事ではあるが、さすがに焦りを感じていた。

沖田は、煙草の煙で黄ばんだ壁を鋭い目で見ながら、事件を想定してみた。煙草の灰が自分の膝の上に落ちても、まったく気がつかない。真剣な顔をしている。

若山洋子殺害──早川岩雄ならば、何の苦もなくやれるだろう。まず、早川は若山洋子が犬好きであることを調べる。もちろん、その段階では、彼女の夫が工員で夜勤であることなぞ知りつくしている。次のとおり実行する。

夜中に家の外から戸をガタガタと叩きながら、犬の鳴き声を真似て発声する。いや、そんなことをしないでも、彼女が飼っているチャウチャウが激しく吠えるであろう。すると、若山洋子が不審に思って戸を開く。そこへ押し入って、後は暴行する、といった具合である。事実、早川がひととき警察に逮捕された時の調べによると、「犬の鳴き声を発して戸を開けさせたこともある」とも話しているのである。