近江屋
「今日からお世話になります、藤七郎と申します。宜しくお願い致します」
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「私は娘の幸、と申します」
米問屋・近江屋に今年二十歳になる藤七郎という青年が丁稚奉公にやってきた。この男は両親を早くに亡くしていて、二人目の両親も先日流行り病で亡くした。哀れに思った近江屋の主人は自分の店に引き取って働かせることにしたのだ。
娘の幸は人見知りが激しく、中々外に出ようとはしない。藤七郎は農家の出だがよく働く気立ての良い若者だと斡旋人から聞いていた。歳は藤七郎のほうが上だが、他の下男に比べてお幸と歳も近いほうだ。
もしかしたら良い話し相手になるかもしれぬ、と考えたのだった。
さて、お幸のことだが、お幸という名は髪上げの時に祖父がつけた名前だという。何故名前を変えたのかは不明だが、幸は何の抵抗もなく受け入れたのだそうだ。
お幸には母親がいない。父親や祖父母からは流行病で亡くなった、とだけ聞かされていた。もともと身体が弱く、お幸を産むと弱った身体に流行り病が忍びこみ、それがもとで亡くなったのだ、と。
だからお幸は母の顔を知らない。そして、九つの頃に父親も亡くしていた。心の病がもとで身体を崩し、亡くなったということだった。
それでもお幸の周りにはたくさんの人がいたからあまり寂しいとは思わなかったようだ。そんなお幸だが、人見知りが激しい故、あまり家から出ることはなく、生まれてから今までをほとんどこの家で過ごした。
お宮参りや簡単な買い物は行ったりもしたが、欲しいものは売り子が来る時に買えば事足りるし、参拝もしょっちゅうするものではないと思っていたのもあった。
その所為か友達は数えるほども居らず、まさに箱入り娘であった。そんなお幸ももう十六。そろそろ跡取りとなる婿をもらわねばならぬ歳になった。
だが今のままではならぬ。そう考えた祖父母は、年頃の青年や少女を多く雇うことにした。
藤七郎もその一人である。藤七郎の身の上は先述した通りで、身寄りはない。集められた大半の若者はそうであった。親も働き口もなければ野垂れ死んでしまうのだから、この誘いを断る者はいなかった。
そんなこともあり、多くの若者がこの近江屋に集まったのだった。これからどんどん大きくなっていく近江屋にもこの多くの若者は有り難かった。
実は一時期財政難で傾いていたのだから、低賃金でも働いてくれる若者が欲しかった――という本音もあるのだ。身寄りのない若者には衣食住と僅かな給与と休みを与えればほとんどの者は文句も言わずによく働いてくれた。