磨いてきたその前歯をしげしげと見つめるアッキーママであった。

「そうですね、は無いだろう」

前歯一本はまた下品な笑いを辺りにとどろかせるのだった。アッキーママは最初、前歯一本の後ろを歩いていたのだが、大滝ナースに信頼されているようだし横に並んで歩く事にした。

素直に心を開いて解らないことは何でも聞いてみようと思った。エレベーターで六階に降り立ったその時、常夏ハワイアンズ七階の空気よりもさらに、もわっ~とした風が流れているような気がした。

「ここは、スパ・バルーンだよ。早く言えばお風呂だよ。月曜日と木曜日がお風呂の日だ。俺は風呂好きだから毎日、入りたいんだがな。しかし、ここは病院だから文句は言えないよな。家でゆっくりと湯船に早くつかりたいもんだよ。あっ、でもこの間は九州の別府温泉の湯だったぞ。俺は別府には行ったことがないが、由布院に親戚がいてな、一度だけ遊びに行った事があるよ」

前歯一本は聞いてもいないことを、べらべらと話している。それでもアッキーママは前歯一本のことを次第に憎めなくなってきたので、ぽつぽつと自分のことを語り始めた。

「あら、私も、アッキーパパと由布院に遊びに行ったことがあります。大きな地震がある六日前でした。由布院の金鱗湖の朝霧が忘れられません。病気になる前ですけれど。是非、また、もう一度行ってみたいのですが無理かなと思ってます。

今は飛行機や新幹線のチケットの予約なんて気持ちがドキドキして取れません。予約ができても前日に具合が悪くなって、キャンセル料がすごくてびっくりしました。それからは、ツアーでどこかへ行くことはいっさいやめました。友達とはもちろんですが家族旅行も行かなくなりました。胸をばくばくさせてその日を待つことにもうくたびれました」

「わかるよ、わかる。俺も由布院に行った時に体調不良になってな。親戚だから元気になってから遊びに行ったよ。由布岳の紅葉が素晴らしかったよ。もう、俺もツアーの旅行なんて申し込めないよ。キャンセルの可能性もあるし、途中で具合が悪くなったらみんなに迷惑をかけちまうからな。俺にはここのスパ・バルーンが似合ってるよ」

そう言うとまた、前歯一本をきらりと輝かせて、がははと笑うのだった。確かに一見はたからみるとごくごく一般人に見られる前歯一本とアッキーママであった、が、精神疾患はとても厄介で難しくて理解されにくいことが、たくさんあるのが現実であった。

昨日までとても元気だったのに、次の日はひどい『うつ』になりぐったりして寝込むこともよくあることだったのだ。

恋して悩んで、⼤⼈と⼦どもの境界線で揺れる⽇々。双極性障害の⺟を持つ少年の⽢く切ない⻘春⼩説。