血の糸
香村良平刑事は、7、8年前に購入しておいた土地に、50歳になってようやく家を建てることができた。場所は名古屋市緑区の有松町で、電車の駅からはずいぶん離れた所だ。最寄りの駅は、私鉄電車の〝有松〟という駅だ。
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〝有松〟と呼ばれるだけあって、この辺りにはまだかなりの松林が散在している。都市開発が進み、緑色が極度に減少しつつある状況下では、〝緑区有松町〟とは、区名、町名からして貴重なものと言えよう。
香村良平は、のどかな青い空を映した川面を見ている。《この土地に住むことができるなんて幸せだなあ》と思った。
周囲の田畑が潰され、山が削られて、住宅地へと化して行くのは惜しい気がするが、名古屋の中心街より電車で30〜40分、生活するにはいたって便利である。静けさが残っているのも良い。
人が羨むような新しい住宅が建ち並び、その一軒が香村良平の家であり、しかも、犬を飼って散歩する余裕まで生じている。
「長い間苦労して来たが、俺は幸せな男だろうな」
と彼は、沖田刑事に対しても口癖のように話していた。だが、ここ数ヵ月、沖田刑事は、香村からこの言葉をまったく聞いていない。その理由はよくわからない。
しかし、どうやら彼の家庭に問題があるようだ。大学受験に失敗した次男がぐれているとか、夫婦関係がうまくいっていない、というようなところにあるのではないか。沖田は、香村の夫婦仲の噂も聞いたことがある。
信じがたいことであるが、犬が、夫婦の間に問題をくわえ込んで来た、とのことだ。香村良平は、コリーを飼っている。香村家から数百m隔てた若山という家では、チャウチャウを飼っている。
洋子という名前の奥さんがチャウチャウと散歩していると、コリーを引き連れて散歩している香村良平と出会う。二人はまるで申し合わせたみたいに見える。
若山洋子の年齢は28。子どもはない。凄い美人とは言えないが、少女雑誌に登場するような顔で、つぶらな瞳、可愛らしい口、色白である。いかにも愛くるしい。明るい笑顔を絶やさない女だ。体は中背でやや細身である。
夫の義男は、自動車部品を製造する大手メーカーに勤務している。工員らしい。齢は、洋子よりも10歳くらい上らしい。沖田刑事も若山洋子に出会ったことがある。沖田が香村と話しながら歩いていた時だった。
偶然に会ったのだが、その時、香村が洋子に向かって嬉しそうに挨拶したのを沖田は覚えている。香村良平の妻は、若山洋子とは正反対の容貌であった。
「豚みたいに太った女房は、強くて可愛らしさがない。俺も太っているから、俺は豚舎にいるような気持ちだよ。それにしても、女の体はもっと細くて、それに愛嬌がなければダメだなあ……」
と冗談とも本気ともとれる香村の声を耳にしたことがあるが、彼の心はどこにあったのだろうか。本当は、洋子に魅せられていたのかもしれない。
そんなことだから、香村良平にとって、細身で若い洋子に会うことは楽しいことに相違あるまい。その楽しさが、楽しければ楽しいほど、香村夫婦間に溝をつくってしまう結果になったのかもしれない。
しかし、これは単に沖田の想像にすぎない。香村良平の人柄はよく知っている。だから、これらが真実とは思えないし、思いたくもない。