高天原から須佐之男命が降りたとされる、新羅国の曽尸茂梨がどこにあったのかは、現在でも議論が続いているようですが、有力候補地の一つが京城でした。そのほかに、済州島や江原道の牛頭山、咸鏡北道の白頭山に、曽尸茂梨はあったのではないかと考えられていました。 

当時の日本は、候補地の一つである京城の一番高い南山に、大国主命の国譲りののちに建てられた、古代出雲大社の姿を取り入れた神宮を建立し、日本(大和民族)の併合政策は、朝鮮半島に住む出雲族の国造りを手伝うだけで、朝鮮半島を奪いに来たのではない、ひと通りの朝鮮半島の近代化が終われば、韓国皇帝に返す「大和の国譲り」であることを示そうとしていたのです。