第2章 教員養成大学のはずが── 東京学芸大学でのぐだぐだな日々

*浪人生活を経験して

高校は、かつての、そして、昨今の超名門・東京都立A高校だったが、私が在学した頃は、とんでもなく落ちぶれていた時代だった。「群制度」という受験システムで○群を受験したのだが、合格してもA高校かB高校かC高校のいずれの高校に進学するか分からない、というわけの分からない制度だった。

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それでも高校の3年間は、中学生の時にやり残したことを叶えられたり、「熱血」と呼ばれるほど色々なことに必死で取り組めたり、一番に戻りたいと思える時代となった。

まずは1年生の秋の文化祭で「ロックバンド」の夢を叶えた。クラス発表だったので、教室をライブハウスにつくり替え、この時はキーボードを担当した。ピアノをレンタルし、借りに行った楽器屋の金木犀が最高に香っていたのが強く記憶に残っている。その時の最高の喜びとリンクしているのだろう。

部活動はというと、当初はもちろんバレーボール部に入部した。大好きな部活動を存分に味わえるとあって、4月の初めから毎日が充実していた。

ところが、5月に入って間もない頃、学校裏手の神社の石階段をウサギ跳びなどで上るトレーニングをしていた時のこと、もう最後の種目というところで、階段の中程で全く動けなくなり、グロッキー状態で担いで運ばれたのだった。

体力には自信があったので、これにはかなりショックだった。病院で精密検査をすると、不整脈ということで、激しい運動にドクターストップがかかってしまった。

1学期のうちはぐだぐだしていたが、母親譲りの心臓の弱さと断念し、自分のペースでトレーニングできる個人種目ならと、50m走でいいタイムを叩き出していたこともあり、陸上競技部に入部した。1年生の秋のことである。そして、ここで思いもよらない出会いが待ち受けていた。