同じ頃、やり投げを志望する同期が陸上競技部に入部してきた。ある日の練習で、その同期の練習相手になろうと思い、向き合って投げ合うと結構いい感じで飛ばすことができた。どうやらバレーボールのスパイクの動き・肘の使い方などがやり投げと合致していたらしく、2年生の春、ほとんど練習もせず、ぶっつけ本番で試合に出てみると、A高校の歴代記録十傑に入る記録が出てしまった。
そうなると楽しくなってきて、やり投げ選手としてやっていくことになるのだが、もう一つ、全くの偶然の出会いとして、いつもスポーツ用品を買いに行っていたお店で、「注文で取り寄せたのに、取りに来ない」というやり投げ用のスパイクをただでいただけることになった。それこそこの出会いがなければ、やり投げ専門にはやっていなかった、と思われてならない。
2年生秋には歴代1位を叩き出し、体のこともあって、一度は引退しようと決めていた。ところが、顧問の先生が走り幅跳びでの日本選手権出場を決め、国立競技場に応援に行った時のこと。
それまでやり投げの記録が低調だったため、審判は75mあたりにいた。その頭上を遙かに越えていく一投があり、振り返って追いかけようとした審判の足が芝に取られ、ヘッドスライディングをして靴が吹っ飛んだ。それに競技場全体から笑いと拍手が起こった。続いて、「ただいま日本新記録が誕生しました!」のアナウンスが入り、大喝采となった。後にロサンゼルスオリンピックで入賞を果たした吉田雅美選手だった。
すると低調だったはずのやり投げが目覚め、それまでの日本記録を持っていた武田敏彦選手も意地の一投を見せ、当時は珍しかった80m越えを記録したのだった。
思いっきり感動した私は、その日の帰りに顧問の先生に、「やり投げ、続けます!」と言ってしまっていた。