総合芸術としての歌劇上演は音楽学校の教育方針として当然打出されるべきものとして本科教員らはフレック嬢を支持する外人教師の主張に賛同し、曲目は前回同様卒業生有志の上演で成功をみた《オルフォイス》をとりあげたものである。
このフレック嬢はなかなかの逸材で、本国では声楽の第一人者リリー・レーマンに師事して二カ月間修業、更にステルン音楽院のホルレンデル教授の下で三年間声楽の研究をし、卒業後同校で声楽教師となり、その間にベルリンはじめ各地の演奏会に出演した経歴の持ち主でドイツ駐在大使の紹介で来日している。
五月はじめこの歌劇上演中止が伝わると学校内外から騒ぎが急に大きくなった。(65)
校内では音楽教育で信望が厚く、またとかく排他的といわれる島崎赤太郎を中心とした師範科系教員と、幸田延を中心とした橘糸重、安藤幸、頼母木コマ、杉浦チカなど本科女性教員派の反目が、学校経営方針の意見対立から陰でくすぶりつづけ、それが一気に噴き出した形となった。(66)湯原元一校長の決断力のなさも不満をつのらせた。
春季演奏会は一応事なく過ぎたものの、夏期休暇に入ってからは、音楽取調掛第一期生としてそのまま音楽学校に君臨する幸田延へ世間の冷たい眼がむけられ、さまざまな憶測がマスコミ、教育界等から続出した。(67)
世評は教育生徒の風紀素行の面に集中した感があり、文部省は湯原校長と協議の末、音楽学校取締方針を打ち出した。
新聞は音楽学校の風紀紊乱を分析して、交友園遊会、修学旅行、下宿の実状等を列挙している。(68)
※本記事は、2020年10月刊行の書籍『新版 考証 三浦環』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。
(64) ①読売新聞「音楽学校のオペラ会」明治三十六年七月二十五日
②石倉小三郎「歌劇オルフォイス」(帝国文学第九巻第八号)明治三十六年八月七三ページ
③「歌劇オルフォイスを観る」(帝国文学第九巻第九号)
明治三十六年九月
④「歌劇オルフォイスの演奏」(美術新報第二巻第十一
号)明治三十六年八月二十日
⑤グルツク作歌劇研究会訳『歌劇オルフォイス』(東文館
明治三十六年刊)奥付の著者は近藤逸五郎とあり
⑥増井敬二著『日本のオペラ』〈明治三十六年の「オル
フォイス」上演の項〉九八~一一三ページ(民音音楽資料館昭和五十九年刊)
⑦前掲書注5〈日本最初の歌劇「オルフォイス」に主演〉の項二四二~二四八ページ
⑧宮沢縦一「本邦歌劇運動覚え書㈠」(武蔵野音楽大学研究紀要Ⅳ)昭和四十五年〈オルフォイスの公演をめぐっ
て〉の項三八~五五ページ
⑨沢田柳吉「我国最初の歌劇楽界の今昔(二)」(音楽時
代第一巻第四号)昭和三年九月
⑩原比露志「日本歌劇の揺藍時代」(音楽第一巻第二号)
昭和八年五月五~六ページ
(65) ①東京日日新聞「音楽学校歌劇中止事件」明治四十一年
五月十二日および二十日
②「歌劇中止の真相」(教育時論第八百三十二号)明治四
十一年五月二十五日 参考文献 秋山一八二ページ
(66) 田辺尚雄著『明治音楽物語』二五五ページ(青蛙房 昭和四十年九月)
(67)①やまと新聞「男女学校評論」明治四十一年九月一日
②毎夕新聞「幸田教授の進退」明治四十一年九月十一日
③東京朝日新聞「憂ふべき音楽界」明治四十一年九月十四日、十五日、十八日、十九日、二十五日
①②③とも参考文献秋山一八七~一八九ページ
(68)日本新聞「音楽生の風紀」明治四十一年八月十七日