近代の日本において新しい女性像を作り上げた「蝶々夫人」のプリマドンナ、三浦環。最近では朝ドラ『エール』にも登場し話題となりました。本記事では、オペラ歌手として日本で初めて国際的な名声を得た彼女の華々しくも凛とした生涯を、音楽専門家が解説していきます。
歌劇上演中止事件と波紋
「音楽界」(明治四十一年六月第一巻第六号)への投書で環が秋の音楽会でオルフォイスのオリデツェ姫に扮するさうで、女の人は芸術には向かないなどいろいろいはれていますが、大役を立派に果たすことが出来るやうがんばって下さい。
と、あるように今度は音楽学校主催で歌劇《オルフォイス》の上演計画がすすめられていた。
グルックのこのオペラの中のメロディが素晴しいとあって、学習院の学生オーケストラが特に「オルフォイス音楽会管絃楽隊」と銘うって音楽会(明治四十一年六月二十日、華族会館)を開くなど、五年前上野奏楽堂で音楽学校等の有志が上演して大成功を収めて以来何かと反響を呼んだ。(64)ところがこのオルフォイス上演計画が突然中止になったという。
そもそも本格的な歌劇上演の話は四十年十月にフレック嬢が声楽の担当教師として東京音楽学校に招聘され、続いて十二月にウェルクマイスターも来日、先輩教師ユンケル(三十二年四月就任)、ハイドリッヒ(三十五年一月就任)の四人がドイツ人としての勢力を占めるようになり急速に進んだものであった。
音楽学校が「師範科卒業同様の中初等程度の唱歌教員若しくは自営の音楽初歩の指南者にして華々しく芸術界に活動せしを見ず」また、「専門の芸術家を作るべき点にあるか、将また教育養成の目的が主なのか」といった世評に対して、芸術至上の考えが幸田延を中心とした本科器楽、声楽の教師たちの気持ちの中にあった。
修学旅行なるが之は春秋二回の催ふしにして男女出発の日取を異にし校門より啓立の際は一は東、一は西するの風を示せど、途中は必ず或る場所に落合ふと予め打合ありてする事なれば予期の如く旅先にて愈々落合ひし暁には恥は掻き捨てと大童に成りて思ひ思ひに双々の組を成し、ここを先途と睦び遊ぶ様迚も是が官立学校学生とは受け取れざる程なりき
こうした中で外国人教師たちは、歌劇上演を文部省により中止せられた上、とかくの風評をたてられそれぞれに三十代という若さも手伝って「決然辞表を出した」ので文部省はことの事態に驚き、電気の設備のため発電機を特別に設置するのに経費がかかるとか、梅雨期ともなれば室内が蒸して観る者、演ずる者が耐えられないとかの理由をつけて一時延期するということで学校側の了解をとりつけた。(69)
外国教師の辞表は受理されなかったが、フレック嬢だけが「誠実ならず」との理由で、七月二十七日解雇されている。彼女のその後については消息がわからない。
なお、音楽学校取締方針とは次のようなものであった。(70)
一、入学者の素行を一層厳重に審査すること
一、 費用の許す限り寄宿舎の設備を完備し、多数生徒を収容して之を取締ること
一、 現在の教授、生徒中素行上如何はしき疑ある者に対しては既往に遡りて、充分の調査をなし相当の措置をなすこと
一、 今後同校の風紀を紊乱すべき恐ある職員及生徒は仮借なく相当の処分をなすこと
まことに手厳しい取り決めである。時の文部大臣牧野男爵の意向が強く反映しており、福原専門局長が湯原校長を文部省に呼んで、作り上げたものである。審査とか取締といった厳めしい表現がみえるが、昨今でいえばさしずめ監督とか指導ということであり、相当な処分、措置とは停学、退学または解雇、減俸をさすもので、この取締が生徒だけでなく教師と生徒と併記しているところに、明治官僚制度の権力がうかがえる。