近代の日本において新しい女性像を作り上げた「蝶々夫人」のプリマドンナ、三浦環。最近では朝ドラ『エール』にも登場し話題となりました。本記事では、オペラ歌手として日本で初めて国際的な名声を得た彼女の華々しくも凛とした生涯を、音楽専門家が解説していきます。
学業、演奏会
環はこの他随意科目としての教育学教授法、実施授業も受講し、卒業年の八月二十四日に教育免許状を下附されている。東京音楽学校では在校生の学業成績を一般に公表し、あわせて音楽技術の普及向上の目的で、春秋二回音楽演奏会を催すことを定めていた。
音楽演奏会プログラムに柴田環の名前が最初に現れたのは、本科二年生に進級の秋、明治三十五年十一月十六日(日)の第七回音楽演奏会である。
この日、上野の森は肌寒く降りそうな空模様であったが、奏楽堂は満員の盛況で午後一時半の開演となった。演奏会の第二部で橘糸重教授(一八七九~一九三九)の弾くショパンのバラードに続いて環は管弦合奏を伴奏に、メンデルスゾーンのオラトリオ「聖パウロ」の中の一曲を歌った。(44)
管弦楽は職員生徒の編成で指揮はドイツ人教師ハイドリッヒ(一八五五〜一九──)であった。環の演奏批評第一号ともいうべき「音楽之友」掲載の記事を次に抄録する。(45)
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……次は独唱、管弦合奏パウルスといふ曲にてメンデルスゾーンの作曲なり、ソロの名手はそも誰ぞ、遠からん者は音にも聞きぬ近からん者は目にも見よ。女学生のサイクリストの元祖ともいふべき自転車乗りの名手にて女子嗜輪会の幹事とやらに推されたる少女にて姓を柴田、名を環と呼ばる佳人なり。この少女が花の如き唇を洩るゝソロのひびきに有頂天外に飛び去らんとする者幾何ぞ、青木児は男子の看板役、柴田環の君は女子部のかがみと人おのづから其長處に服して貶するところを辨へず悪評好きの口わろきものも此二人のみは番外に譲れるが如し。
兎角少女は愛嬌ありて可愛がらるゝものなれば吾人はその尻について雷同せず、大いに賞揚して将来有望の言を惜まざると共に、気取り方未だ子供らしき處ありて音色、発想等悉く大人らしきにひとり其身のゆすることは猶ほ名玉の瑾か初舞台の上出来も伴奏の為に声を奪ひ消さるゝの虜れありしは遺憶なりき、之れ寧ろ彼の責めに非ずして伴奏士の大いに注意すべきことなるべし……。
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大仰な文体で、明治期の印象過多な記述による演奏評ではあるが、環の演奏に好意的で彼女の人気、ステージにおける容姿を、垣間見ることができる。