近代の日本において新しい女性像を作り上げた「蝶々夫人」のプリマドンナ、三浦環。最近では朝ドラ『エール』にも登場し話題となりました。本記事では、オペラ歌手として日本で初めて国際的な名声を得た彼女の華々しくも凛とした生涯を、音楽専門家が解説していきます。
学業、演奏会
明治三十四年(一九〇一)九月、柴田環は東京音楽学校本科に入り、三年に進級した時には特待生となり明治三十七年(一九○四)七月十日、本科声楽部を卒業している。(※41)
第十七回卒業証書授与式には賞として故白井銈造奨学記念品のホーキン著『音楽史』を授与され、卒業記念演奏会には声楽部を代表してブルッフ(一八三八~一九二○)の「レシタチーフ」を歌った。(※42)
(注・声楽部の卒業生は柴田環と横山イトの二人のみ、器楽部卒業生は四人であった。)
思うにこの選曲は、わが国洋楽史の流れの中で重要な意味をもっている。洋楽の小品に作歌し唱歌として歌った音楽学校演奏会、さらに明治音楽会や慈善音楽会等で歌われるリードやアリアはどちらかといえば旋律を中心とした歌曲であった。
このような状況の中で言語表現に重点をおいて叙唱に着目し、日本には馴染の薄いブルッフを取り上げたことは注目すべきである。
ブルッフは当時べルリン音楽アカデミーの教授として作曲界の重鎮であったが彼の作品を選んだ背景にはドイツ人教師ユンケルの指導が感じ取れる。
次に柴田環の本科声楽部在籍中の修得科目を列挙する。(※43)