近代の日本において新しい女性像を作り上げた「蝶々夫人」のプリマドンナ、三浦環。最近では朝ドラ『エール』にも登場し話題となりました。本記事では、オペラ歌手として日本で初めて国際的な名声を得た彼女の華々しくも凛とした生涯を、音楽専門家が解説していきます。

研究生のころ

明治三十七年七月、東京音楽学校本科声楽部を卒業した柴田環は引続き研究科に進む。環の同期生たちの卒業時の就職先を見ると、師範学校教員男七名女一名、中学校教員男二名、高等女学校教員女九名、研究科生男一名女三名、就職先不詳が男女各二名であった。(※48)

研究科に進んだ環は同時に「授業補助ヲ命ス、学資トシテ一箇月金拾弐円給与」の辞令を受ける。(※49)明治三十七年九月十二日のことである。ちなみに瀧廉太郎が研究科二年の時(明治三十二年)ピアノ授業の嘱託として採用され受けた報酬は拾円であった。

環が教員に採用された明治三十七年度の教員組織は教授八、助教授九、嘱託及び雇は二十、外国人教師は四(独二、米一、露一)の計四十一名であったがこのほかに外国留学中の教授が一名いた。

研究科に進み母校の嘱託となった環が春の演奏会に歌った最初の曲はモーツアルトの「カンツオナ」であった。(※50)これは《フィガロの結婚》第二幕第三場で「教えてくださいこの悩みを、これが恋というものなのでしょうか」と歌うケルビーノのカンツォーネであろう。

都新聞は、環の歌を評して

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柴田環子の独唱、モーツアルト作のカンツオネは曲柄と言ひ、唱ひ振りといひ誠に申分ない。これは確かに当日中の大出来で女史の伎倆はよく進歩した。かのオルフォイスの百合姫とは格段に聞かれた。

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としている。(※51)

当時のプログラム、新聞雑誌等に記される外国楽曲、作曲家の表記には統一がなくまちまちの感があった。原綴りがないので誤記、誤植とも判じ難く楽曲形式で呼ばれる曲ともなると楽譜が特定できない限り、その判別に苦しむ。