正式な結婚後も旧姓を通していた。
例えば幸田延、安藤幸両教授や外国教師ユンケルらによって演奏された「ロマンツェ」を挙げてみよう。
プログラムにはエンゼル作曲とあり、新聞紙面ではエンゼル氏作となり、音楽雑誌にはユンセン、同雑誌の別号ではセンセン作曲とあるが如くである。演奏会当日のプログラム所載曲名にも随分怪しい訳名がつけられていたりする。
現在では外国楽曲名や作曲家、演奏家の人名についての仮名表記や呼び方についてはNHK、文部省、音楽出版社、図書館、研究者等各方面の努力で大方の統一を見ており、曲や人名の識別が容易になっているが、明治期の洋楽用語は統一というより造語の面白味も手伝って邦訳されたため時代を経た今日では曲の判別を困難にしている。
環は前述の春季演奏会の時には既に藤井善一と正式に結婚し、藤井環として麹町区三番町に実母と同居しているのだが柴田姓のままで通している。
旧姓で通すことは現在でもなかば慣例となってはいるが、とかく巷の噂に敏感な新聞社や雑誌社もこの時点では環の結婚に気付いていない。
入学以来春秋二回の演奏会で独唱をしていた環であったが、第十三回秋の演奏会には出演の記録がない。代わわって春に三部合唱で環と共演した研究生の小室千笑がウエーバーのアリアを独唱している。
朝日新聞はこの年の洋楽界を顧りみて
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曽ては、柴田嬢の独占たりし、独唱界に小室千笑子嬢の如き才媛を出したり。殊に小室氏が声楽に於て、成功したるは、本年音楽界の偉観として喧伝せらる。
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とし、あわせて昨今の洋楽界隆盛の兆しを音楽学校の成果として歓迎している。(※52)
(※48)文部省総務局文書課編『文部省第三十二年報』一四七ページ(宣文堂書店復刻昭和四十三年刊)
(※49)東京芸術大学所蔵藤井(旧姓柴田)環履歴書
(※50)『東京音楽学校一覧』一七三ページ(同校明治三十九年刊) 明治三十八年第十二回春季音楽演奏会(三月十九日)於奏楽堂
(※51)都新聞「音楽学校演奏会」明治三十八年三月二十四日
(※52)朝日新聞「過去一年間の洋楽界」明治三十八年十二月三十一日