「『日本書紀』の記事には誇張があって、真実を語っていないと説明していますな。つまり、一屋も残さず焼失したというのは誇張で、事実は、そのとき建設中だったものは焼けずに残った、という考え方ですわ」

「その説明に対して、反対者はどういっているんですか」

「平行線ですわ。なにしろ『日本書紀』の記事が正しいかどうかという問題ですからな。その記事を書いた人はもうおらへんのやから、調べようがありませんですやろ。要するに、これも謎のままということですわ」

「そうですね……でも、その記事を書いた人に直接聞いてみればわかるかもしれませんね」
沙也香は、ひとりごとのように小さな声でつぶやいた。

「はあ? なんですか?」
「い、いえ、なんでもありません。こちらのことです」沙也香はあわてて手を振った。

しかし、ふと思いついたこの考えが、真相にたどりつく道しるべになるのではないかと思った。彼女は、文章には書いた人の魂(たましい)が宿っていると信じている。だから感動した文章と出会ったとき、その作者と心の交信を交わすことがよくあるのだ。それは作者が生きているか死んでいるかにはまったく関わりがない。

このときふと思いついた着想が、やがて古代史学界を震撼させる大発見へとつながっていくのだが、この時点では、彼女自身はそんなことは夢想だにしていなかった。

「それともう一つ、重大な事実がありますねん」坂上は改まった口調でいった。「先ほど金堂で見た仏像についてですが、本尊になっている釈迦三尊像の光背の先が折れ曲がってたですやろ」

「はい、見ました。たしかに折れ曲がっていました」
まゆみがそばから口を出した。

「あの傷がいつ、どうしてできたのか、わかっていないんです。そしてあの仏像の裏側には光背銘(こうはいめい)いうて、文字が刻まれとるんですが、それによると仏像ができたのは六二三年らしいんですわ。

大火災があったのが六七〇年やから、そのとき釈迦三尊像はどこにあったのか、なぜ消失しなかったのか、そんなことがぜんぜんわかっておらへんのですわ」