弐─嘉靖十三年、張(チャン)皇后廃され、翌十四年、曹洛瑩(ツァオルオイン)後宮に入るの事
(5)
翌日、稼業を休んだ。
頭の整理がつかない。とても、仕事をする気にはなれなかった。
とうとう、見てしまった。あれが、羊七(ヤンチー)の言っていた『ウラ』であったか。
漁門の実態は、想像を超えていた。まさか、あの女までが、餌食になっていたとは……。
あれからどうなったろう。彼女の言ったとおり、もう、ぼろくずのように、殺されてしまったのだろうか? 名前くらい、きいておけばよかった……。
ありあまる銀(カネ)にものをいわせて建てられた、城郭のような宝林館(ほうりんかん)。
名は、実態をあらわさぬものだ。名など、どうにでもつけられる。
子供をさらって来て、高値で売りさばけば、たいした元手も、手間もかからぬから、濡れ手で粟(あわ)、暴利をむさぼることができる。たしかに、金は儲かるだろう。儲かって儲かって、笑いがとまらぬだろう。反抗すれば、手や足を切り落とせばいい。それでも反抗するようなら、骸(むくろ)にすればいい。
だが、それが、人のなしうるわざであろうか? そんなことができるのは、人でなしだけだ。
私は、麵売りにまわされてもなお、漁覇翁(イーバーウェン)に一抹の敬意というか、おそれを抱いていた。
はなばなしい成功に、あこがれない若者はいない。しかし、宝林館の実態をのぞいたいまとなっては、脳裡にひろがるのは、鉛のような失望感のみであった。
こんなところにはいられない。一刻も早く、ここを離れねば。
まず最初にむかったのは、司礼監の出張所であった。
李清綢(リーシンチョウ)師父に、わたりをつけてもらおうと考えたのである。
さいわい、田閔(ティエンミン)は、すぐに応対してくれた。
「李(リー)師父は、おいでか」
「いや、いまは不在だ。いったい、どうしたのだ」
「正戸(チャンフー)の身分に、していただきたい。ただそれだけだ」
田閔(ティエンミン)は、しばらく黙っていたが、「銀は、あるのか」と、きいて来た。
正戸(チャンフー)の人員はかぎられている。二十四ある衙門(がもん)で、重きをなす師父たちは、たとえ欠員ができても補充せず、その分の給金を着服しているものだと聞いていた。
人員をあらたに雇い入れるということは、師父にとっては、手どりの銀がへることを意味する。だから、あらたに正戸となるには、此奴(こいつ)なら、自分の給金がへっても惜しくはない、と、認めてもらわなくてはならないのであった。
「そこを、相談したいのだ。いま、手許に、三十六両ある」
「……ふーむ」
田閔(ティエンミン)は、腕組みした。
「貴公を、唯一、頼れる友と思いさだめての、一生のたのみだ。足りない分は、正戸となったあかつきに、給金の中から、かならず返す。どうか、貴公から、口をきいてはもらえまいか。わしは、もう、あんなところで働いていたくはない」
「どういうことだ?」
「……む、わしも、貴公のように、宮中でお仕えすることを、長年、夢見ていた。ただ、それだけだ」
きのう見た、酒池肉林の淫虐世界については、黙っておこうと思ったのである。
「麵屋はどうする」
「むろん、たたむ」
「店じまいしてしまうのか? 惜しいのう」
さぐるような目で、私を射す。
「屋台がなくなっても、材料さえあれば、わしがつくってやる。それで、どうだ」
「さようか……それにしても、性急だのう。いったい、どうしたのだ? 何があった? 正直に言え。言わなければ、それがしは動かん」しかたなく、昨日、見たことの一部を話した。
「……そういうことであったか」
田閔(ティエンミン)はようやく、腑におちたような顔をした。
「わしは、もう、あの主人の下ではたらくのは、耐えられぬ。一刻もはやく、大明帝国の宦官になりたい」
「わかった。それがしが、李師父を説いてみよう。三日後に、また来てくれ」
私は塒(ねぐら)へもどり、木櫃(きばこ)をまさぐった。
あった。全財産の、銀三十六両。
田閔(ティエンミン)、たのむぞ。どうか李(リー)師父を動かしてくれ。
三日後、ふたたび訪れた私に、田閔(ティエンミン)は告げた。
「叙達(シュター)、あの話な、いちおうは、李師父にたのんではみたのだが、ざんねん乍(なが)ら、人員の空きはないそうだ」
「ええっ!」
「気を落とさんでくれ。それがしも、こんなことを言うのは、心ぐるしいのだ。役にたてず、申しわけない」
あらたな宦官を雇い入れぬというのが決定事項なら、しもじもが何を言ったって、詮なきことである。
「……さようか。こちらこそ、無理を言って、すまなかった」
どこかに、わが身をやとってくれる人はないものか?
ほかに頼れそうな人といえば、浄軍(じょうぐん)のときの監督官、趙大哥(チャオターコウ)くらいのものだった。
薄給でもいい、浄軍にもどりたい。
ところが、趙大哥(チャオターコウ)は、こう言ったのである。
「小事を忍べぬ者は、大事を乱す」