【前回の記事を読む】信長19歳、有楽斎6歳の時に父・信秀が死去――織田家では今川方へ寝返る者が相次いだ。さらに兄弟を追い詰めたのは……

第一章 戦いの半生、無楽斎(楽なき人生)

桶狭間の戦い――戦略が光り雷雨が味方した大勝利、名を轟かせた信長

今川氏の勢いが強まるなか、尾張南部にある鳴海城(なるみじょう)と大高城(おおだかじょう)の織田方の城主が今川方に寝返りました。これに対して信長は、両城の周囲に付城(つけじろ)(砦)を築き、兵糧(ひょうろう)や援軍の出入りを断つことで両城を孤立させます。

この状況を打開するため、今川義元は、永禄三年(一五六〇)五月十二日、二万五千人の大軍を率いて駿府の今川館を出陣します。その狙いは、鳴海城・大高城を解放し、織田方の付城を排除することで、尾張国境から織田の勢力を追い払って国境地域の安定を図ることでした(『今川義元~偉大なる駿河の太守~』)。

義元の命を受けた松平元康(のちの徳川家康)は、兵糧不足に陥っていた大高城へ兵糧入れを行います。その後、大高城を取り囲む織田方の丸根砦(まるねとりで)を陥落させました。さらに、鷲津砦(わしづとりで)も今川の重臣・朝比奈泰朝が陥落させます。両城陥落の報せを受けた義元は、「満足この上なし」と上機嫌で謡(うたい)を口ずさみながら桶狭間に着陣しました。

一方、十九日早朝、両砦が攻撃を受けているとの急報を受けた信長は、幸若舞の演目「敦盛」を舞い始めました。

「人間五十年、下天(げてん)の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか――」(『信長公記』)

舞い終わるなり、信長は出陣のほら貝を吹かせ、小姓たちを従えて清州城から出陣します。熱田神宮で戦勝を祈願し、その後、善照寺砦(ぜんしょうじとりで)で約三千の兵たちと合流。信長はその中から約二千の精鋭を率いて扇川を渡り、中島砦に入りました。

そして、中島砦を出立して、今川軍の物見(偵察部隊)から悟られないように、扇川に沿って進軍を続け、やがて今川軍の本陣近くの雑木林へと忍び寄ります。折しも、夕立雲は幾重にも重なり、その色をますます濃くしていき、ついには雷鳴を轟かせて桶狭間一帯を大雨が襲います。雨音は織田軍の進軍の音をかき消し、今川軍本陣の近くまで迫ることができました。

あまりにも突然の雨に、織田軍の兵たちは「熱田大明神のご加護ではないか」と口々に言ったほどです。一方、桶狭間に本陣を構えていた今川方には、まるで石や氷を投げつけられるかのような激しい雨が容赦なく打ちつけ、鎧や武具も濡れて重くなっていました。