「ハイッ、お奉行様」
と返事はしたものの、どこに妥協点を見出せばよいのか、皆目見当が付かなかった。栄蔵は左門に相談した。
「栄蔵お前(め)は、バカ正直なところがある。交渉ごとはどこかで妥協点めっけんばならない。それにはお前(め)が双方に案出して、受け入れられるというか、妥協できるところを探んだ。これが間に立つ者の心得だ。分かるか」
と左門は諭した。
「父上、私にはこのような交渉ごとは不得手で御座います。まとめ上げることはできません」
栄蔵は涙ぐんだ。握った拳が膝の上で震えた。
「オイ、どこへ行くんだ」
栄蔵は飛び出して走った。当てもなく。橋の袂まで来た時土手を下りて、橋の下で泣いた。自分は何もできない空しさに泣けた。栄蔵は家に帰らなかった。
「オイ、そこは俺の塒(ねぐら)だ。どいてくれねぇか」
と、乞食に怒鳴られた。栄蔵は端へ動いた。乞食はブツブツ言いながら、自分の塒に横になった。
「なして、泣いてんだい」
乞食は蹲(うずくま)っている栄蔵に声をかけた。
「私は何をやっても、何もできないのです」
と嘆いた。乞食は、
「そんなんで泣いてんのかい。俺はなぁ、カカァもガキも死んじまった。何もしてくれれねかった(やれなかった)。幸せな奴だよオメエさんは自分のことで泣くなんて。死んでいくカカァもガキもただ見ているしかなかった。泣いたよ。泣いてやるしかできねかった。それから俺は泣いてねぇ。オメエさんはガキか」
と、栄蔵はバカにされた。
「私は子供か」
乞食は、
「あぁーそうだて。自分のしたことの失敗で泣くなんざぁ、ガキだて。この世に救いなんかねぇね」
と、言った。栄蔵は、
「じゃ、なぁしておめさんは生きているのか(なぜあなたは生きているのですか)」
と聞くと、間髪を容れずに答えた。
「死なねぇから生きてるだけよ」
この言葉は仏の問いかけのように聞こえた。栄蔵の心に残った。
栄蔵はまた歩き出した。泣きながらだ。すると何かに躓いて転んだ。暗くてよく分からない。立ち上がろうとしたら、何かやわらかいものに手を着いた。目を凝らしてよく見ると餓死した赤ん坊だった。躓いたのは母親だ。死んでいた。
栄蔵は泣き崩れた。栄蔵の心を救えるものは何もなかった。
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