【前回の記事を読む】元妻が使っていたベッドで、彼に激しく抱かれた。「この部屋では恥ずかしい…」私を黙らせるように、何度も覆いかぶさってきて……
雪の夜
3
葉子が英介のマンションに転がり込んで、一週間が過ぎた。
英介は、半月ほど休暇を取っていたらしく、二人が新しい生活を準備するための時間としては充分だった。といっても、葉子には何もいらなかった。買ったものといえば、新しい歯ブラシと下着類、葉子のサイズに合ったパンプスくらいだった。それから、スマートフォンを新規に契約した。
英介は、とろけるように優しかった。葉子のことを気遣い、いたわってくれた。このままでいたら、この人と永遠に離れられなくなってしまいそうだった。しかし、ここにずっと収まってしまうなんてことは、現実にはありえないことだった。
葉子は、中崎の家を黙って出てきた。いま頃夫は、突然いなくなった妻のことを探しているだろう。このままで済むはずはなかった。
女将が急にいなくなった店は、いったいどうなっているだろう。長い年月働いてくれている従業員たちは、誰も真面目で、手を抜くような人たちではなかった。そのことは、義母から女将を引き継ぎ、店を切り盛りしてきた葉子が、いちばんよく知っていた。
しかし、誰かが先頭に立って切り盛りしなければ、店は立ち行かない。隠居して店から離れて長い義母が、いまさらできるはずもなかった。
葉子は、店員たちの中で、古株の女たちの顔を思い浮かべた。それから、大学生になる娘のことを考えた。あの子なら、わたしの代わりをやってくれるかもしれない。しかし、それも都合のよい空想にすぎなかった。
4
十五年前の雪の夜の記憶を、これまで何度思い返しただろうか。葉子は、あの夜の出来事を思い返せば思い返すほど、奇跡としか思えなかった。
あの日、衝動的に「中崎」を飛び出して、電車を乗り継いだ。生まれ故郷の北陸を目指したが、あてがあるわけでもなかった。
父はもうこの世にはいなかったし、母はどこにいるのかわからない。葉子には、兄弟もなく、疎遠な親戚のところへ、いきなり訪ねて行くわけにもいかなかった。古い友人たちの顔も思い浮かんだが、彼らを頼るというのも現実的ではなかった。
それでも、生まれ故郷の他に行くところが思いつかなかった。先のことなど、考える余裕もなかった。ただ、目の前の現実から逃れたいと、その思いだけだった。