【前回の記事を読む】妻子ある上司が娘を妊娠させた。突然、私の職場を訪ねてきて「産むのを考え直すよう説得してほしい」と頼まれて……

雪の夜

3

英介は、東京の世田谷にあるマンションに住んで三十年になる。田舎を出て、東京の大学に通う英介たち兄弟のために、父が購入してくれたものだった。

レンガ調の十二階建てで、各部屋には張り出したバルコニーがあり、白く塗られた欄干はツルクサをかたどったデザインになっていた。窓は大きく取られて、天井も高かった。装飾的な造りが、いかにもバブル期を象徴するようなマンションだった。

弟が父の事業を継ぐために田舎に帰り、その父が亡くなると、このマンションは英介が相続した。

英介は、三十のときに結婚した。それから二十五年間、妻の恵美とこのマンションで暮らした。息子が一人いるが、二年ほど前に就職して、いまは地方で暮らしている。

部屋は二階にあった。すぐ下が緑地になっていて、木々が豊かだった。木々の向こうに住宅街が広がり、遠くには関東山地の稜線が見えた。

「眺めのいいお部屋」

バルコニーに立つと、葉子は嬉しそうにはしゃいだ。当初は、広いリビングのある2LDKの間取りだったが、十年ほど前に、家族それぞれの部屋が欲しいと恵美が言い出して、3LDKにリフォームした。リビングを間仕切って造った洋室は、南向きで眺望がいちばん良かった。そこを恵美が使っていた。

「この部屋を、自由に使ってくれ」

部屋は、恵美がいたときのままだった。恵美がいつか帰ってくるかもしれないという思いが、心の片隅になかったかといえば嘘になる。しかし、帰ってきたとしても、再び元のような関係になれるとは思っていなかった。

「わたしは、ソファーでも使わせてもらえたら、それでいいのよ」

葉子は、はにかむように言った。

「だって、ここにしばらくいてくれるのだろう?」

英介が言うと、葉子は、口元をわずかに引き結んだ。

「あなたさえよければ」

葉子の目が細まって、糸のようになる。

「なんだか、奥さまに悪いわ」

「そんなことはない。だいいち、もう奥さんでもなんでもない。他人のものを使うのはいやかもしれないが、いずれ捨てようと思っていたものだ。使えるのなら、使ってくれたらいい。新しいのを買った方がよければ、そうすればいい。とにかく君のいいようにしてくれ」

恵美のいた部屋は、五畳ほどの広さで、南側からバルコニーに出られた。すぐ下の緑地帯は、建築法の制約で造られた空間らしいが、そこに様々な木々が植えられて、ちょっとした植物園のようでもあった。

ちょうど山茶花が花をつけていた。十本ほどが等間隔に植わっていて、どういうわけか、どれも白い花ばかりだった。

目を移すと、ドウダンツツジや椿があり、背の低いシルバープリペットが冬でも青い葉を茂らせていた。ずいぶんと背の高い木もあった。両手の指を広げたように、かたち良く枝を広げていた。シャラの樹だった。

葉子は、ひと目でこの眺望が気に入った。中崎の家では、店に隣接した離れに住んでいたが、葉子の部屋は納屋に面していて、窓からの眺望はなかった。眺めのいい部屋に暮らすのは、ずっと葉子の夢だった。

部屋には、ベッドと小さな鏡台と、ラックひとつがあるきりだった。ひと目見て、この部屋にいた人の性格が、わかるようだった。こういうシンプルさも、葉子の好みに合っていた。