【前回の記事を読む】帰宅するなり、彼に無言で着物を脱がされ…いつも以上に激しく愛された。私は意識が飛ぶほど感じてしまい……
霧のみずうみ
6
数日後、仁明亭にまち子を訪ねる人があった。
厨房で客に出す食事の内容を確認していたまち子は、呼びに来た番頭に礼を言うと、玄関へ出た。
その日も、むせ返るように暑い日だった。
そこにいたのは、まち子よりも少し年下かと思える男だった。紺色のスーツに身を包み、ネクタイもしていた。
「お仕事中に申し訳ありません」
男は丁寧に頭を下げると、名刺を差し出した。見ると、聞いたことのある社名があった。
住所は東京だ。男の肩書きは、次長となっていた。
「佳織さんのお母様でいらっしゃいますか?」
「ええ」
改めて名刺を見た。娘の勤めている会社だと気付いた。
「佳織さんのことで、お話ししたいことがあります。少しお時間をいただけないでしょうか」
男はそう言って訴えるような目を向けた。目鼻立ちがくっきりとしていて、目元には知的な印象があった。
まち子は、この男が佳織の相手だと察した。
「すぐには出られませんので、少しお待ちいただけますか」
まち子はそう言うと、温泉街の入り口付近にある喫茶店を指定した。
「三十分ほどしたら、そちらに参ります」
男は、丁寧に頭を下げて仁明亭を出て行った。
チェックインを予定している客のリストと食事の確認を終えると、まち子は喫茶店に向かった。
男は、店の入り口に近い席に座っていた。
「こんな格好で失礼します。このあと夕食のお世話がありますので、三十分くらいしかありませんが」
まち子は男の様子を注視しながら席についた。ちょうど、二人は向き合う格好になった。正面から見ると、男の整った顔立ちが、改めてはっきりと見えた。こんな顔立ちの俳優がいたと思ったが、誰だったか思い出せない。
「突然に申し訳ありません」
男は頭を下げたまま、佳織の名前を口にした。
「付き合って、もう二年ほどになります」
男は、苦しそうに言った。
「佳織さんはわたしの部下としてプロジェクトに参加してもらっています。とても有能です。仕事だけではなく、人間的にも女性としても大変魅力のある人です」
「それで?」
「妻子がある身としては、いけないとは思いつつも、割りない関係になってしまい、お互いに身動き取れない状態になってしまいました……」
男はそう言うと、苦しそうな表情を一層ゆがめた。まち子は、黙っていた。
「三か月ほど前ですが、彼女はわたしとの子供を出産すると言い出しました」
三か月前といえば、まち子が湖畔を歩いているとき、佳織から電話が掛かってきたときだ。
「彼女が言うには、失礼ですが……お母様もお一人で彼女を産んで育てられたとか。そういう意味で、自分にも同じことができると、いや、お母様のように生きたいと、そう言っているのです」
まち子は、その口ぶりに、男のいやらしさを感じたが、佳織の心境を思うと胸が詰まりそうになった。
父がいない家庭で育つことへの負い目を感じないようにと、まち子なりに努力してきたつもりだった。母としての気負いで、娘と衝突することもあった。しかし、そんな娘が、母のように生きたいと口にしているのだとしたら、たまらなくいじらしく思えた。