【前回の記事を読む】妻に店の売上金を持ち逃げされた。浮気相手は、よりによって私が雇っていた従業員だった…男癖の悪い女に裏切られ、その後は……

霧のみずうみ

5

「奥さまのことを愛していらしたのね」坂本さんはうつむいた。

「いまとなっては、よくわかりません」

「そんなことないわ。あなたの記憶の中には、いまでも鮮やかに生きていらっしゃるでしょう?」

「わかるものですかね」

「ええ」

坂本さんは、目を上げると、ふっと思い出したように口を開いた。

「女の髪が、陽に照らされると、赤く見えるものだということを、教えてくれた……」

「何なの?」

「昼も夜も、ひとりの女を眺めて暮らしたのは、後にも先にも、あの頃だけだった」

坂本さんの声は、しっかりとした芯を持っていて、まち子の耳に響いた。

「これから先だって、そういうことはあるでしょう」

まち子がそう言うと、坂本さんは小さく笑った。

「女は灰になるまでと言うが、男はなかなかそうはいかないでしょう」

坂本さんの言葉は、柔らかく降り積もる雪のように、まち子の心を満たしていった。雪がすべての音を吸い取り、音という音が消えていく。こういう人と人生を共にしたら、きっと和やかで満ち足りたものになるのだろう。そう思いながら、坂本さんを見つめた。

ひとつひとつの言葉が、坂本さんの人生をまち子の目に映じていく。豊かだった。こんな気持ちになれたのは、久しぶりのことだった。けれど、ここはわたしの居場所ではないと、まち子は思った。