「たわごとだと思って聞き流してください」
「わたしね、坂本さん」
「え?」
まち子は、声を低めた。
「坂本さんが、どうして独り身なのかって、ずっと気になっていたわ」
「わたしなんて、甲斐性もないものですから」
「奥さまは?」
「ずっと前に、別れました」
「どうして?」
「男をつくって、出て行ったんです」
坂本さんは、苦いものを口にしたような顔をした。まち子は、しばらく何も言えなかった。坂本さんを捨てた女とは、どんな人だったのか。
「それからは?」
「それきりです」
坂本さんの言葉には、裏も表もないようだった。これまでの生き方が、そのまま言葉に表れているようだった。
まち子はふと、この小さな店を彼と二人で切り盛りすることを想像してみた。静かで平穏な時間が流れていく。女として、そういう幸せもあるのだと思った。もし比呂志がいなかったら、とまち子は考えた。わたしは坂本さんの申し出に応えていたように思う。
けれど、本当にそうなのだろうか。いつ会いに来るとも知れない男ではあったが、二十年以上も付き合ってきた比呂志には、まち子をこれまで釘づけにしてきた何かがあった。それが何なのか、坂本さんを意識しながら、少しわかってくる気がした。
会えなくても、比呂志がどこかにいると思えたから、それだけで女として生きることができた。坂本さんがまち子にとってそういう存在になれるのかといえば、それはちょっと違う気がした。
「このお酒、本当に美味しい」
まち子は、揺れそうになる心をお酒に向けた。柔らかい清水のようで、しかも米の匂いがしっかりとあった。日本酒がこんなにも美味しいものだとは、これまで気付かなかった。
「故郷の酒なんですよ」
彼はそう言って目を細めた。
「むかし、金沢にあるホテルでコックをしていましてね。格好つけてステーキなんか焼いていました」
「へえ、意外だわ」
坂本さんは、恥ずかしそうに笑った。
「そこで知り合った女と結婚したんですが、それが男癖の悪い女で、二人でやっと開いたステーキハウスの売上げを持って、アルバイトで雇った男と逃げてしまったんです」
まち子はゆっくりと目を上げて、坂本さんを見た。骨ばった頬から顎にかけてのかたちが、情の細やかさを思わせた。この人は、本当に優しいのだと思った。そして、二重の目の奥に、燃えるものが見えたようで、まち子ははっとした。
次回更新は10月27日(火)、22時の予定です。
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