【前回の記事を読む】妻子持ちの男性との間に子どもができた。相手には話さず、母にだけ「何と言おうと産みます」と伝えると、反対されることもなく…
霧のみずうみ
4
永井比呂志と出会ったのは、ちょうどその頃だった。まだ若かったまち子は、比呂志の魅力に惹かれ、彼が妻帯者であるということを深く悩むこともなく、あっという間に恋に落ちた。
人の愛に、渇いていたのかもしれない。大企業のエリートで都会の匂いがして、しかもハンサムな比呂志に、まち子は夢中になった。比呂志も情熱的だった。理由をつけては、まち子に会いにやって来て、逢瀬を重ねた。まるで、坂道を猛スピードで駆け降りていくような日々だった。
あの頃、まち子は何を考えていただろうか。未来のことを考えていなかったといえば嘘になる。両親も親戚もいない天涯孤独の身で、普通の結婚などできないと諦めてもいた。
仁明亭の女将は、親代わりのようにまち子に目をかけてくれたので、縁談の話もいくつかあったが、気乗りするものはなかった。仲居の仕事に、天職を感じていたこともあった。
この仕事を離れてしまうと、父母との縁が切れてしまうような心細さも感じた。そういった思いが、まち子の心をかたくなにさせ、いっそう比呂志に傾倒させたのかもしれない。
あれから、二十六年が経っていた。
5
浅間神社の境内は、樫の古木に囲われるように営まれている。
樹齢は何百年になるのだろうか。黒黒とした樹皮はささくれ、生き物のように表情をつくっている。むせ返るような新芽の匂いがあふれていた。季節は夏になろうとしていた。境内一面に敷きつめられた玉砂利は白く乾き、そこに木の陰が黒かった。
ときどき、まち子はこの境内まで足を運ぶ。石段を登りきると、温泉街を眼下に見下ろせる。無数の旅館の甍の波が、斜面に沿って様々な表情を見せ、仁明亭の青銅の色は、その中でも際立っていた。
石を投げたら端まで届いてしまいそうな小さな街だった。この温泉街の隅々に、わたしの記憶は詰まっているとまち子は思った。比呂志との記憶も、すべてこの狭い空間にある。まち子の人生そのものが、ここに凝縮されているといってよかった。
ある休日、まち子は山を降りて、県庁近くの百貨店で、仕事着のために塩沢紬を新調した。
クリーム色をベースにした下地に、薄っすらと蹴鞠柄が織り込んであった。その反物を手に取ったとき、一目見て気に入ってしまった。
まち子が持っている塩沢紬は、夏塩沢と呼ばれている薄手のもので、シャリシャリとした質感が好きだった。今回選んだものは生地がしっかりとしている。その方が、帯紐をきつく結びたいまち子にはちょうど良い。きつめに結んでも、生地が崩れることなく、身体の線に沿ってしっかりと受け止めてくれそうだった。
仁明亭が支給してくれる仕事着もあったが、まち子は着物にはこだわりたかった。他のことを節約してでも、毎日身につける着物には妥協したくない。亡くなった母も着物にはうるさい人だった。いつしかまち子は、母のこだわりを受け継いでいた。