その日は、宴会がいくつか重なって、仁明亭は大忙しだった。夕食の支度には、坂本さんも店を閉めて、手伝いに来ていた。
一通りの料理が出てしまうと、戦場のようだった厨房はようやく落ち着いてきた。宴会の客たちは、部屋に戻り始めていた。だらだらとお酒を飲み続ける客もいたが、あと一時間もしたら引けるだろうと思った。
「まち子さん」
坂本さんは、引きあげるところらしかった。
「おつかれさまでした」
まち子は、頭を下げた。
「猟師の知人が珍しい猪の肉を分けてくれたんです。よかったらあとで寄りませんか」深い彫の奥で、二重の目が優しくこちらを見ていた。
「よろこんで。あとで伺います」
まち子はそう答えると、心の中で小さな花が咲いたような気分になり、それが自分でも可笑しかった。
坂本さんの店には、遅い開店を待ち構えていたように、すでに三組ほどの客が入っていた。
まち子が暖簾をくぐって店に入ると、坂本さんは一番奥の席を指差した。まち子のために、そこだけ空けておいてくれたようだ。
この店に来るのは、比呂志と一緒に来たとき以来だった。あれは桜の咲く前だったので、もう三か月くらい前のことになる。その間に、比呂志とは二度ほど会った。一度は比呂志に会いに東京へ行き、六本木の美術館で絵画の展覧会を見て、虎ノ門にあるホテルに泊まった。
もう一度は、新幹線の停まる駅前のホテルに泊まった。ここの工場への出張の用事をそう頻繁につくることもできなくなった比呂志は、夜遅くに新幹線でやって来て、ステーションホテルに泊まり、翌朝東京に戻った。
それは、まち子と会うためだけの来訪だった。まち子は、少しでも時間をつくろうとする比呂志の心遣いを嬉しく思う一方で、夜に来て慌しくまち子を抱いて帰っていく比呂志に、寂しさを覚えないではいられなかった。しかし、比呂志に会えるなら、やはり嬉しかった。
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