【前回の記事を読む】不倫関係は26年も続いた。夜遅く新幹線でやって来ては、ホテルで愛し合った…だが、いつまでも続くことはなく……

霧のみずうみ

5

カウンターに立つ坂本さんの姿を眺めながら、まち子は不思議な気持ちだった。比べるつもりはないが、坂本さんは、比呂志の対極にいるような気がした。

比呂志が動なら、坂本さんは静だった。坂本さんを見ていると、心の隙間を通り抜ける風がいくらか和らいでくる。この人には、そういう、人の心を和ませるものがあった。

客のオーダーが続いたので、坂本さんはせわしなく立ち働いていた。しばらくして、ようやくお腹を満たした客たちが帰っていくと、坂本さんはまち子に笑いかけた。

「繁盛していますね」

「貧乏暇なしです」

そう言って、白い歯を見せた。年齢を感じさせない、張りのある顔だった。

坂本さんは、猪の肉を薄くスライスすると、小皿に盛り付けてくれた。伊万里か有田だろうか、赤い上薬が鮮やかな花弁を描く小皿に、ピンク色の猪肉が並べられた。

口に含むと、思っていたより柔らかく、癖がない。薄口醤油に浸して二枚目を口にすると、今度はかすかだが甘みが広がった。針葉樹系の花のような、つんとする甘さだった。

「とてもおいしいわ」

まち子は、心底からそう思った。

「猪は生で食べるのが一番。贅沢なことですが」

坂本さんは、そう言いながら、もうひとつの小皿に自分用に猪肉を盛り付けると、まち子の隣に座った。

「今日は店じまいだ」

そう言って瓶ビールを開けると、二つ並べたグラスに、なみなみと注いだ。小さな店内には、まち子と坂本さんしかいない。静かに夜が深まっていく。

ビールを飲んでしまうと、坂本さんは日本酒を出してくれた。北陸地方の日本酒だった。

透明感のある、口当りの良い酒だった。

しばらくしたときだった。

「まち子さん」

坂本さんの目が、しっかりとまち子をとらえた。

「何ですか?」

「よかったら、ここで店を手伝ってもらえないだろうか?」

手伝ってくれというのは、どういうことなのだろう。坂本さんの射るような目を見つめ返しながら、まち子はすぐに返事をできずにいた。

「ごめんなさい、わたし……」

そこまで言いかけたとき、坂本さんが遮った。

「いや、いいんです。聞かなかったことにしてください。あなたみたいな人は、こんな店には不釣り合いだ」

坂本さんはそう言って、コップの日本酒をあおった。

「そうではないのよ」

まち子は何と言おうかと言葉に迷った。

「わかっています。あの人でしょう」

「ええ」

まち子は、顔が赤らんでくるのを感じた。