「ちゃんと家賃払ってるのにバカねえ、プールがあるなんて教えてくれなかったわ」

ジャムプーンはコートの脇から獣道のような暗い茂みのトンネルを奥へ進んでいく。

「待てよジュン、きっとぼうふらの巣だよ。このコート見ればわかるだろう。きっとワニがいるよ、エヴァーグレイズから下水管を伝ってきたワニが。本当に襲われるぞ」

ジャムプーンの笑い声が闇の奥からクスクス聞こえてくる。「あら、ここのワニって優しいのよ。九番ホールの池でワニの背中に水鳥が休んでいるのをこの前見たわ。いまならきっと貸し切りよ。ねえ早く」

頭が闇にのぼせてクラクラする。外気と絡み合わない皮膚の呼吸に微かな痺れが広がり、足を動かす感覚が曖昧で歩くペースと同調しない。落ち葉の砕ける音だけが耳の内側で異様に澄んで聞こえる。

揺れ動く月の像と、背を向けてしゃがみ込んだジャムプーンの姿が見える。背後からそっと足音を忍ばせて近づくと、不意にシーズーがこちらを振り向き牙を剥き出しにして唸る。

「ほら、だから言ったろ。まるで重油じゃないか。バカだなあジュンは。これ火をつけたらたぶん燃えるぞ。蚊で感染する病気でさ、プールを掃除しないと罰則があったはずなのに。落ちるなよジュン。飛び込み台があるくらいだから、きっと深いよ」

マリモのように苔に覆われて浮いている物体は、フェンスを飛び越えてきた昔のテニスボールだろうか、水面下に目を凝らすジャムプーンの瞳にも月は映っている。風でいちどきに立ち騒ぐ葉擦れの音、冷めたポタージュスープのように薄膜を張った水面が、ところどころで破けながら風下のほうへ幾筋もの皺を寄せ集めていく。

その裂け目に現れた光沢は暗いネガフィルムのように僕たちを映す。虹色が滲み広がった輪模様の水面下に、ゆらゆらと揺れる廃バッテリーの山やモーターオイルのペール缶がうっすらと透けてここから見える。ジャムプーンは両手で月をすくった。まるで黄卵が崩れるように、それはゆるゆると両手のひらを滑り落ち、水面で時間をかけながら円を思いたどりまた丸く固まる。

「ねえ、ちょっと見ててよ」 

ジャムプーンが対岸にそびえる映画セットの古戦場の砦のような飛び込み台まで走る。そして擦りきれていまにも寸断してしまいそうな縄の梯子に片足のヒールをかけた。

「ジュン、降りられなくなるぞ。何を考えてるんだよ」

試し読み連載は今回で最終回です。ご愛読ありがとうございました。

 

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