【前回の記事を読む】警官に撃たれると思った日系2世の少年は、ゆっくり両手を上げた。次の瞬間、背後から巨大な誕生日ケーキを抱えた女が現れ……

3.明晰夢 ―メイセキム―

シーズーが躊躇しながら瀬踏みしていた深い水たまりの中へ勢い良く飛び込んで、遠ざかる彼女を一目散に追いかけていく。

スコールの後の湿った空気が薄い粘膜のようになって、心地良く肌にまとわりついてくる。植え込みに立つ樹木の葉から滑り落ちてくる生温かい水滴。外灯の明かりは水たまりの表面を移ろう無数の朽葉までやっと届く。

駐車エリアはまるで解体される車のスクラップヤードのようだ。朝になるとそこらじゅうを徘徊している黒色レグホンに似た水鳥たちは、まだ一羽もその姿を現さない。「なあ、せっかく夢だとわかっているのに、何だかよくわからなくなってきたよジュン」

ゴミ捨て場の巨大なボックスを囲う木柵の手前に、食料雑貨店のプッシュカートがぽつんと放置されてある。その脇の植え込みに立つバスケットボールのゴールポストにリングはなく、腐朽してひび割れたボード板だけがある。

その真下に転がる空気の抜けたサッカーボール柄のゴムボール、いつか散歩途中のシーズーに寄ってたかって抱かせてと言ってきた黒人の女の子たちが使っていたボールだ。集合メールボックスが並ぶ路地の曲がり角で、やっとジャムプーンに追いついた。

しんと静まり返ったアパートメントコミュニティの中、僕は声を殺して「ケルベロス、さあほら帰ろう!」と叫び遠ざかるふりをしてみたが、シーズーは彼女の足許を動こうとはしなかった。

「ざまあみろお。ケルはアナタのこと嫌いだって」

ジャムプーンがそう叫び、おかしそうに笑う。九番ホールのラフに面したE棟の二階に、リタイヤして身寄りのない白人の老爺がいつものバルコニーの手すりに寄りかかり、片手にトングのようなものを持ってひとり言をつぶやいているのが見える。彼はもう眼下を通り過ぎる裸同然のジャムプーンを認識する力さえ残っていない。

夜空をただ見上げては俯いて、それを納得がいくまで繰り返す。遠くのフェアウェイから用を足したシーズーが耳を後ろに倒しながら全力で駆けて戻ってくる。僕らはまわり道をして別の路地を引き返した。

ベトつく棘の種子を抱いた草花が群生し、ひと目で使われていないとわかるぬかるんだテニスコート、倒れたポストの滑らかな背が不発弾のように土からその一部を覗かせて、ネットは完全に埋まってしまっている。ジャムプーンはそのフェンス越しで遠くの地面に揺れ動く何かの像を見ている。

「ああ、あれたぶん水面に月が映ってるだけだよ。コートの裏手はコミュニティのプールになってたはずだから。知らなかった? ただの月だよ」

何かの臭いが風に混じっている。下水管が近くで破裂したような臭いだ。