【前回の記事を読む】「君とコーヒーを飲めるのはいつになる?」買ったコーヒーは未開封のまま賞味期限切れに。新婚旅行から帰国後、妻とは会えなくなり…
1 遠いようで近いようで
君は猫舌だから氷を入れるんだよね。だけどごめん。氷は作ってない。冷めるまで待ってくれ。僕は熱いのが好きだから先にいただきます。
オレンジのカップを母親の遺影の前に置いて、自分の分をテーブルに置いて、座る。一息ついてコーヒーをすする。
君が暮らしている僕たちのアパートには、二人で選んだ横長のローテーブルがある。僕の目の前には学生時代から使っている正方形のローテーブル、これだと隣には座れないし、テーブルの置き方が悪いから向かい合わせにも座れなくて、直角に座ることになるだろう。僕たちのアパートだったら横に座って映画でも見てるかな。
どっちでもいいんだ。ただ普通に、手が届く距離で、君とコーヒーを飲めるならそれでいいんだ。
もうすぐ君とウェブ上で会う時間だ。ちゃんと会いたいね、けど会えないね、なんていつもみたいに笑う自信が、今日はないな。
「賞味期限切れてもコーヒーはうまいよ」
そんな話でいいかな。君は苦笑いで
「仕方ないなぁ」
と言ってくれるかな。
二人で飲むように買ったって話は言わないでおくことにするよ。毎日連絡は取り合っているけれど、君の声で、君の顔を見ながら、君のこの1週間の話を聞かせてほしい。
パソコンの電源を入れる。もうすぐ君の顔が見られる。声も聞ける。まだ暗いままのパソコン画面に手を伸ばす。指先が当たってコツンと音が立つ。
君に触れたいってことは言ってもいいだろうか。
2 測りかねる
定時になったので、上司に今日の業務進捗をチャットで連絡して、パソコンの電源を切った。進捗具合は上々だ。以前よりも断然効率が良くなった。そりゃそうだ。全面的にリモートワークになって、出勤に費やす時間と労力を仕事に充てられる。
そもそもが業務内容的に出社する必要性がないのに、なんの疑問もなく満員電車に揺られていたつい数週間前の自分のことを、こうなった今では恐ろしいとすら感じる。
意味があるのか分からない会議やミーティングは必要最小限になった。グループチャットで事足りる内容ばかりだったんだなと、こうなった今、やっと気付く。業務時間内に会議やミーティングが行われて作業は定時過ぎまでかかる。時には終電を気にしないといけない時もあった。
今は、在宅で仕事をしているので、良くも悪くもかもしれないが終電を気にする必要がない。というかそれ以前に、作業に充てる時間が十分確保できているから定時に仕事を終えられる日のほうが多い。
新型コロナウイルスは大きく濃い影を落としているが、俺にとっては、人間らしい生活をもたらしてくれた。苦しんでいる人、奪われてばかりの人がほとんどだということは分かっているので、口には出せない。不謹慎だと重々自覚している。
それでも、俺にとって、以前の生活が人間らしさがなかったと、そのことにすら気付いていなかったと知ることができて、人間らしい生活をできている今のほうが、やっぱり、ずっといい。なんせ、今から銭湯に行けるんだ。仕事終わりにひとっ風呂なんて生活、今まで考えられもしなかった。
ポケットにマスクを入れて、サンダルを履いて、玄関を開ける。通り過ぎていった風に含まれる湿気すら心地良い。まだお日様の存在が分かる時間に仕事を終え、あまつさえ出かける余裕すらある。自転車に乗っていこうかと思ったがやめた。歩いて行こう。時間ならあるのだから。