胡蝶夢号のハンドルを握りながら、私はときどき考える。
私たちは、何をもって「生きている」と言うのだろうか、と。
日本語では、漢字表記の「命」と、ひらがな表記の「いのち」がある。日常では二つの異なる表記の違いはほとんど意識されないが、医療や生命科学、そして死を巡る場面では、深い問いとして立ち現れる。
本書では、「命」という言葉を、生物学的に観察・測定可能な生命活動を指す語として用いる。心臓が拍動し、肺が呼吸を行い、細胞が代謝を続けている――そうした体の営みとしての生命である。
沈みゆく満月――
月光とさざなみの饗宴 浜名湖の夜明け
月光とさざなみの饗宴 浜名湖の夜明け
一方で、「いのち」という言葉は、「命」を土台としつつ、心や意識、記憶、感情、そして他者との関係性を含めた、「生きている」という実感そのものを表す語として用いたい。誰かを想い、風景に心を動かされ、自らの存在を感じる、その総体としての「いのち」である。
脳死という状態は、この二つのあいだに横たわる溝を私たちに突きつける。体の命の営みが人工的に保たれていても、意識や人格としての「いのち」は、すでに失われていると感じられる場合がある。一方で、生命体としては死を迎えた人の存在が、記憶や物語、あるいは霊や魂として、残された人々の中に生き続けると感じられる「いのち」もある。