【前回の記事を読む】「思い過ごしだよ」──18歳女性の爪が異常に黒くなり、筋状に広がった状態が1カ月も続いている。「黒い指」は死の病とも言うが…

予報に反して、午後になってから雲行きが怪しくなり、凍てついた北風が、降り積もったばかりの乾いた雪を舞い上がらせていたが、私はその微かな雪明りを頼りに彼女の家へと向かった。そしてノックをしようとしたとき、中からイザベラ、ナタリー、ティナが激しく言い争う声と、レイモンドの取り乱したような泣き声が聞こえてきたのだった。

家族間の言い争い、何を言っているのか聞き取るのは難しかったのであるが、どうやらナタリーが病院に行きたいと言ったことに端を発しているようであった。

「生活保護を受けているうえに借金を抱えていることを忘れたのかい。もう病院の話はたくさんだ。これ以上、私を困らせないでおくれ」

「それでもあなたは私の母親なの??」

「私だって我慢したのだから、ナタリーもそんな爪の怪我くらいで病院にいくなんて生意気よ! メイ姉さんのこと忘れたの?」

明らかにティナの声であった。

私はいたたまれず、踵を返した。日本では当たり前ともいえる医療が、誰しもがあこがれてやまないこのアメリカ合衆国にあっては、かくも不公平かつお粗末なものであることに改めて驚いたのであった。この時、私はティナが言っていた「メイ姉さん」とはイザベラと前夫との間の娘のことだと思い、それ以上深く考えることはなかった。

案の定、午後10時を過ぎた頃から雪は本降りとなり、私は固いパンと分厚いハムを交互にかじりながら、この先どうするべきかを考えていた。あまりの寒さで、幾重にも重なった氷の結晶が、窓ガラスを徐々に被い始めていた。この分だと明日の朝、車を出すことは出来ないだろう。ガレージから州道までのドライブウェイの除雪が必要となるからだ。

私は気持ちを落ち着かせるために玄関先に置いてあった缶ビールを取りに行った。暖房の届かないポーチは、絶好の冷蔵庫でもあったのだが、部屋に戻り、缶の蓋を開けた途端、ビールが噴水のように一気に吹き出した。

私はサイモン夫人が「寒さがひどい時、缶類は外には置かず、室内の冷蔵庫に入れておくように」と言っていたのを思い出し、思わず苦笑した。

(相当取り乱しているな……)寒暖計を見ると外気温は華氏7度(氷点下25度)を指していた。このような寒さは初めての経験だった。室内に移動させた缶ビールの膨らみが収まっているのを確認して、恐る恐る2本目のプルタブを引いたが、幸い、今度は爆発することはなかった。

この夜、悲観的な思い込みが強いという損な性格を封じ込めるかのように、私は味の薄いビールをひたすら飲み続けたのだった。

翌朝、目を覚ましたのは10時過ぎだった。依然として雪は降りやまず、積雪はすでに40cmを超えているようだった。慌ててサイモン夫人に電話したが、もちろん買い物は不要ということだった。隣のマーティン家は雪に霞んで見えなかった。時折、猛烈な風が、乾ききった雪の結晶を白煙のように巻き上げているのが見えた。

メラノーマという言葉が何時までも脳裏に刻まれたまま、消えることはなかった。私は気を紛らわすように、この日もビールを飲み続けた。