【前回の記事を読む】「ご結婚は?」74歳の女性に聞かれた36歳の男性。離婚に悔いはなかった。だが、“あの日の誤算”を一生後悔することになり……
オランダの壺
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先週の内見で、赤道は二軒目の南青山の物件に決めた。百六十平米で家賃は七十二万円。築四十六年で外壁のレンガは適度に黒ずみ、重厚感がある。
ロビーの吹き抜けは高く、天井から長いケーブルで球状のライトが三個、フロアに置かれた本革のソファを照らしている。麻田は「自分も住みたい物件」と紹介したが、嘘ではない。
「あなた、まだ若いのに、どうして古い家が好きなの?」
その家を見るとき赤道は笑って聞いた。
「はい。いろんな人が住んできた物件って、人の喜怒哀楽を見てきたと思うんです。それで、人により一層寄り添ってくれる気がするんです」
赤道は静かに頷いてくれた。
内見のあとオフィスへ戻り、申込書に記入してもらうと、赤道は「年収」の欄に「二五〇〇〇」と書き込んだ。単位は万だから……、二億五千万円……。
麻田は抽斗(ひきだし)から赤道の名刺を出した。最初はセキドウを連想したが、こうして「赤道緑」の文字面を眺めると、絵画的だ。熱帯の赤土の道。車が走ると、もうもうと土が舞う。その両側に緑の草原がどこまでも続く。
麻田の高校時代からの友達霧谷(きりたに)がむかしアフリカを旅行し、土産に「レッドマウンテン」というコーヒー豆をくれた。
「ケニアのコーヒーだ。ブルーマウンテンじゃないからな」
彼の写真には夕陽を受けて一層赤い大地と、どこまでも続く草原があった。
……アフリカかぁ。行ってみたいなぁ。
霧谷家は神奈川の田舎の名士で、祖父が創設した大学をいま霧谷の父が経営している。本人は資産運用で生きている。
ドアが開き、赤道が入ってきた。契約の相談だった。麻田が段取りの説明を終えると、直美さんが戻り、シュークリームとアイスティーをテーブルへもって来た。
「お口に合いますかしら」
直美さんは赤道に声をかけ、つづけて麻田に掌を突き出して、
「あなたも、お食べ」
開業したとき、霧谷から「おまえは女の尻に敷かれるフォーマットで行け」と言われ、「フォーマット」という単語以外は納得した。
「そういえば、私が来たとき、なんだか神妙な顔してらしたわね」
赤道が書類をバッグに入れながら言った。
「そうですか。いや、単に旅行のことを考えていただけです」
「どこか、行きたいの?」
「はい」
「どこ?」
「行けるなら、アフリカですね」
「行けば?」
「いやいや、日数必要ですよね。そんなに休めないです」
「旅行は若いうちよ。思い切って休んでみたら? ふた月とか」
やはり、息子を励ます母の口調だ。
「ふた月ですか……」
「旅は魂を成長させる最高の機会よ」
霧谷はケニアの夜空も熱く語っていた。数秒ごとに流れる星がいずれも霧谷から遠ざかる方向へ墜ちていく。おれはセンター・オブ・ユニバース——そんなことを言っていた。