【前回記事を読む】よちよち歩きの幼児が井戸に落ちそうに…こんなとき、あなたならどうしますか? これこそ孟子が「性善説」を裏付けた事例で…
第一章 孟子
仁政と革命是認
孟子の道しるべは、孔子の教えと人生であった。孔子は、生まれ育った魯国を徳治の国にするため君主に仁政(道徳による仁愛の政治)を説くなど多くの努力をしたが叶わず、流浪の旅に出る。
しかし、いずれの国でも仁政が受け入れられずに帰国し、古典の整理編纂や弟子を育てることに残りの人生を費やした。孟子は生まれ育った鄒国は仁政(孟子は「王道」と呼んだ)を行うには小さ過ぎると考え、他国の君主に、この仁政を説く旅を始め、望み叶わず郷里に帰ってくる。そして、余生を、弟子を育てることと著書『孟子』の執筆に費やした。
孔子と孟子が悲願とした仁政の限界は、君主が有徳者である必要があることであった。そのような評価がなされた君主は数少なく、むしろ、覇を武力で争う君主ばかりであった。孔子も孟子も仁政を説く旅で、そのような徳のある君主に出会うことがなかった。
孟子は、誰でも親孝行から始めて有徳者になれると君主に説き、道徳的な覚醒(かくせい)を促した。孟子は斉の宣王(生年不詳~紀元前301年)に望みをかけたが、宣王はその器ではなかった。
「仁者(じんしゃ)に敵なし」が孟子の信念であり、仁政を行う者を「仁者」と呼んでいた(ただし、「仁者」とは本来「仁」の心を備えている者を言う)。道徳による仁愛の政治を行えば、民衆が心服して、国が徳で治まるばかりか、周囲も感化すると孟子は考えた。孔子に始まるこの教えを孟子は発展させて、「天命は、天が物言うわけではなく、人間の行為とその行為によって生じる出来事で示される」と考え、
「天子の地位を保証する天意は、民衆の意思によって代表される」1
という政治思想に至った。
そして、民衆より君主が軽いとした。これは、「君主に問題があれば、民衆が君主を取り替えてよい」という革命容認とも解される。後世に孟子のこの革命容認思想が伝えられることになる。そして、中国においても日本においても、この革命容認思想は体制維持にとって危険思想と受け止められた。