【前回の記事を読む】「最近何か面白い本、読みました?」…迷った結果“三島由紀夫”と答えたが、語りすぎた…数秒の沈黙の後、彼女は唐突に……
おとこと女
「あのう、一ノ瀬さん、私……」
「はい……」
「あのう、実は私、明日、この四月いっぱいで、ここ辞めちゃうんです」
「えっ、それは本当ですか?」
「ええ。ですから、明日はお休みなんで、一ノ瀬さんとこうして文学のお話ができるのも今日が最後かと……」
「あっ、そうなんですね」
「寝耳に水」とはまさにこのことだった。
その一方で最初の会話の後に、一ノ瀬としては川名香澄との間にある種のロマンスが始まることへの淡い期待感を抱いていただけに、もう、後が無いともいえる現実的な話題は、一ノ瀬の心中に痛烈な打撃を与えた。
そこで一ノ瀬としては気持ちの中で大きな後退を余儀無くされたこの局面をどう打開し、そして再び川名香澄と同じ土俵へと自分を引き上げることができるか、急ぎ考え始めた。
正直、この時点で一ノ瀬は川名香澄への自分の気持ちについてはまだ定かではないにしても、何か漠然とした未来志向の中で、このまま川名香澄のことを諦めたくない。
もっと彼女と共通の文学の話題で彼女の退職後も「ご縁」を維持したまま、まだまだ自分の得意分野を通して、いろいろなテーマを川名香澄に語り聞かせたいという、自分でもどうにも抑え切れない欲求が高まっていた。
そんな、もう本当に後が無い、切羽詰まった心理的な状況において、その次に、一ノ瀬が川名香澄に対して自分の気持ちの奔流に押し流されるように、その必然的な流れの中で自然と口にすべき言葉は決まっていたともいえる。