年齢年はなぜ見落とされたのか
冒頭の天皇の系図と表1-2をご覧ください。この表では、神功皇后以降、親子間での皇位継承は少なくなります。系図からその原因は兄弟間での皇位継承に関係していると見てとれます。先帝は崩御の際まで皇位に居座り、皇位継承は先帝の崩御の後に行われるのが常態化していきます。
すると、古き時代の立太子を介した生前譲位の制度はだんだんと忘れられ、天皇位と皇太子位の区別が明瞭になってきます。
このような状況の到達点がどんなものであったのかは、欽明天皇以降の錯綜とした皇位継承の実態を見れば明らかです。第三十一代用明天皇から第四十一代持統天皇までに立太子を経て即位した天皇は第三十八代天智天皇以外一人もいません。
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(後の天智天皇)の立太子もその中身を見れば全く常軌を逸しています。第三十四代舒明天皇と第三十五代皇極天皇の間に生まれた中大兄皇子は、叔父の孝徳が第三十六代天皇に就くと、その皇太子となりました。
しかし、彼は孝徳天皇が崩御しても即位せず、母(皇極天皇)を第三十七代斉明天皇として重祚(ちょうそ)(一度退位した天皇が再び即位すること)させ、自身は摂政となって実権を握りました。母親を重祚させる中大兄皇子の所業は、古き時代の親から子への生前譲位からすれば、おおよそ考えられないことです。
白村江(はくすきのえ)の戦い(西暦六六三年)で唐・新羅連合軍に大敗した中大兄皇子は大津に遷都し、そこで初めて天皇に即位し、第三十八代天智天皇となります。この時、弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)を東宮に据えます。
しかし、天智天皇には皇位を大海人皇子に譲る気はなく、死が近づくと、我が子大友皇子を皇太子とします。天智天皇の崩御に伴って大友皇子は即位したはずですが、書紀はそれを記録していません。皇太子大友を第三十九代弘文天皇と認めたのは明治政府です。
天智天皇が崩御すると、吉野に逃れていた大海人皇子は軍を近江に進め、大友皇子率いる朝廷軍を撃破(壬申の乱、西暦六七二年)、即座に第四十代天武天皇になります。この一連の皇位継承の流れの中に、皇太子の意義はもはやどこにも見出せません。
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