【前回記事を読む】『日本書紀』の年代は本当に改ざんだったのか…成立から1300年以上信じられてきた“紀年の前提”に、異を唱える新説が……
第一章 序論――紀年論の問題
(一‐二)内田祐治氏の紀年論に光を当てる
立太子紀元説
紀年に潜む第二の年号とは一体何でしょうか。ヒントは立太子を介した生前譲位にあります。先帝が生前譲位し、退位した後も元気で活躍しているとします。この時、皇位年はもはや使えませんので、代わりの年号が必要になります。それは実年齢しか考えられません。
人の一代記を書く時、もし暦のない時代であれば、人の年齢をもって年号とするのはごく自然なことです。以降実年齢で表された年号を年齢年と呼ぶことにします。つまり、紀年には皇位年と年齢年の二種類の年号があり、書かれている紀年が皇位年か年齢年かを判定する必要があるわけです。
親子間での生前譲位を前提に、皇位年と年齢年を考慮した立太子紀元説は次のようになります。
第一事項 子が親から立太子を受けて天皇に即位した時を紀元とする(元年は即位の翌年)
第二事項 その時点で親の皇位年は停止され、代わりに年齢年が立つ
第二章以降で各天皇紀を取り上げ、立太子紀元説による紀年修正を具体的に見てゆきますが、それに先んじて、まずは内田論文で得られた各天皇の履歴データを表1-2にまとめておきます。この表には比較検討が容易になるように、『書紀』および『古事記』の崩年を再録しました。
ただし、『古事記』の崩年は崩年干支を那珂博士により西暦年に比定されたもので、表1-1の値からは干支一運(えといちうん)(六十年)を単位として、その整数倍の不定性を入れて、繰り下げてあります。
表1-2を眺めてまず指摘できる点は、神武天皇が生きた時代は紀元後一世紀であること。崩年はもとより約六百年も降って、一世紀後半になっていること。引き続く歴代天皇の宝算も適正な年齢に収まっています。
また、紀年の修正が初代神武天皇まで切れ目なく行われたことからも、紀年の絶対年比定は広開土王(こうかいどおう)(高句麗の第十九代王)碑文に照らしても大きな矛盾はなさそうです。
那珂博士による『古事記』崩年干支は、倭の五王(讃・珍・済・興・武)の天皇比定において、古代史学者からは一定の信頼が置かれてきましたが、『書紀』の紀年修正で得られた表1-2の崩年は『古事記』崩年干支と比較的よい一致を示していることが認められます。
このように内田氏の立太子紀元説は、紀年修正の結果、各天皇の年齢において適正な値を導いており、これまで報告されてきたどの紀年復元法よりも優れています。
