【前回記事を読む】『オセロー』上演中、聴衆の男が主人公役を狙撃した。こんな事が起こったのは、ある種の「除去」が機能しなかったからだ。
第一章 沙翁の筆端神(しん)あるを知れり――『リチャード三世』『ジュリアス・シーザー』
「成程趣味」の深み
自身のその後の創作から例を挙げるなら、『明暗』の吉川夫人が
「それが私に云はせると男らしくない貴方の一番悪い所なんですよ。〔中略〕女は考へやしませんよ。そんな時に」と言ったのに対して、津田がすぐさま
「ぢや考へる私は男らしい訳ぢやありませんか」(百四十一)と反論するところなど、まさにこの「成程趣味」の典型例といえる。
津田が繰り出したこの「成程趣味」は、彼の頭のよさや吉川夫人との甘えを含んだ関係など多様な要素を伏線的に暗示する意味をもつが、効果はそれのみにとどまらない。
つまりこうした会話においては、たとえばAの発言を受けたBが、その言葉尻をとらえるような形でAの意識にある文脈とは別の文脈を表に出してみせることになる。
Bの発言はAには「屁理窟」と見えても、B、たとえばやはり『明暗』の岡本に言わせれば「何処へ出ても立派に通る理窟」(七十五)なのであって、それが顔を出すことで、別の文脈が背後からぬっと浮上する。
つまりこれもまた物事には「反面がある」ことを意識に上らせる「手際」の一つなのだ。
ちなみにその岡本が「立派に通る理窟」だと言い、姪のお延は「信ずるのは厭」であるがゆえに「屁理屈よ」と拒絶する論理は、以下のような三段論法をなしている。
一、「男と女が引張り合ふのは、互に違つた所があるからだ」。
二、ところで、「其違つた所は、つまり自分ぢやない」、「自分と別物だ」。
三、それゆえ、「自分と別物なら、何(ど)うしたつて一所になれつこない」。
だから「一度夫婦関係が成立するや否や、真理は急に寐返りを打つて、今迄とは正反対の事実を我々の目の前に突き付ける」。
つまり男女間の「牽引力が忽ち反撥力に変化する」、こうして結局「男は男同志」、女も「女同志」へと戻ってゆくのだと岡本は言う。
この「考への何処(どこ)迄が真面目で、何処からが笑談(じょうだん)なのか、お延には能(よ)く分らなかつた」のだが(七十六)、この「寐返りを打つ」オセロ・ゲームめいた「真理」こそ、実はこれからお延が、それが「屁理屈」にすぎないことの証明に挑むところの標的なのだ。
とすれば、岡本の口を借りて繰り出されたこの「成程趣味」は、作品の核心へそれとなく読者を引きこむひそかな伏線として、先の津田の茶々入れ以上の重みをもつだろう。
すなわち男女が「一所になる」ことへの希求と、両者の差異ゆえのその不可能性という「物の両面」がここに浮上して、『明暗』一篇の主題を暗示している。
「山寺のカツポレ」にも通ずるこの矛盾の追究は、もちろん『明暗』に始まるわけではなく、実は漱石のほとんどの長編小説が掘り下げようとしてきたところではあるのだが。