【前回記事を読む】見てはダメ…と思いながらも、ドアを閉められなかった…ネグリジェを脱いだ女に、男は「無理心中しようとする女は願い下げ」と平手打ちした
第一章 見知らぬ人のままで
背の高い市村の影が、ソファーに沈み込んだ。
「君がかっとなって、車で飛び込もうとする。僕が君を殴るか……。たいした終わりだな」
彼は自らの醜態を嘲った。自分には起こりそうもないことが起こったという思いがけなさがあるようだ。
一度怒りを噴出させてしまうと、自省も相手への慮りも沸いたようで、「あのまま別れていればよかったな、食事のあと。君が送ると言うので、ここまで乗せて来たのがまちがいだった。横浜まで、ということにしないか? 僕らがあそこで終わったと。そのあとのことは忘れよう」市村の声は柔らかくなっていた。
泣き声がとぎれとぎれになった。
「それなら、悪い思い出じゃないだろう?」男の声は諭すようにやさしい。
「ええ……」
耀子も観念したようになっていた。
「明るくなったら出よう。市内まで乗せてゆく。君はそこからハイヤーででも帰った方がいい。事故車じゃ目立つから――」
市村の声は閉めたドアの向こうに消えた。
薔子は、女優と不真面目な遊びを愉しんだ彼を良く思えはしないが、桐野耀子のこの男への執着が分かるような気がした。
殺したいほど好きになるなんて、羨ましいこと。
彼女は自分を鮮やかに魅了せしめたものの正体をはぐらかした。
翌朝、二人は礼を言って去った。耀子は涙で腫れた顔に丹念にメークアップをして、名誉挽回するように薔子に笑顔を振りまいて行った。
二人を送り出してしばらくしてから、薔子はリビングの灰皿の下に、手帳を破った紙に挟んだ一万円札があるのに気づいた。
『お世話になりました。洗濯代にでもして下さい。他に御礼の仕様もないので。市村』と走り書きしてあった。向こうはこれで気がすむのかもしれないが、金を置かれたことも、金額の過分さも、薔子の眉をひそめさせた。失礼しちゃうわ、という気持だった。
東京に戻るまでには、須賀にはっきり別れを言う決心がついていた。自分には縁もゆかりもない男の存在が、須賀で決めるのは間違っていると、ある明瞭さを持って薔子に悟らせたのであった。