【前回の記事を読む】本好きの私が、「こんな結末、くそくらえ」と罵倒した1冊…帯のキャッチコピーで「感動」なんて書かれているが…

12.手を変え品を変え

泣いてしまいたかった。

明日の撮影のことなど気にせず。腫れぼったい目になることなど気にせず。どうせならば泣いてしまいたかった。

助けてください。泣けてしまえれば自分にはまだ感動に揺れ動く心があったのだと自覚できた。涙の1粒さえ演じられず、ただただソファに座っている。

これが本当の意味での喪失だと気づいたのは、泣けない自分を見てからだった。

悲しいとか辛いとかそういう感情は全部わかる。でもその感情が涙という出口を見つけられない。蛇口を捻っても水が出ない。出ないというより、蛇口ごと錆びついて捻ることができない。

ペンチで無理やり捻ろうとしても、腐食が進んだ根本からもげる。そういう状態だ。誰かに聞いてほしい。この状態を説明する言葉を私に教えてくれ。

母から責められて布団を頭まで被って声を殺して泣いた子供の頃を思い出す。あの時は悔しさや虚しさにまみれた気持ちをどこにもぶつけられなかったから涙した。

今も抱えた気持ちはどこにもぶつけられない。でも涙は流れない。同じ状況のはずなのに機能しない。壊れた蛇口どころじゃない。完全に干上がっている。川底が見えている。もはや河川の体を成していない。

本を読んでいる時は何者でもない自分になれていると思っていた。

違った。

本を読んでいる時だけが本当の本山千晴になれていたのだ。

計算も設計も管理もポジションも関係なく、ただ活字と向き合っている私が本物の私だった。

それが今はまともに読めない。本物の私が機能しなくなっている。もうどこにも本物の私がいない。私が私である内に誰か殺してくれ。いや、既に私はもう私じゃないのかもしれない。私が私を殺すより先に、私という概念が自然消滅していたのかもしれない。

自分のことを振り返ろう。せっかくだから。こんな夜に他にすることもない。

本当の自分と対峙していないのに分不相応な成功を積みすぎている。

麻雀で言えばクズ牌を集めたら国士無双が出来上がったようなもの。みんなは着実に一九字牌を切って堅実に立直をかけているのに、私の手だけがぐちゃぐちゃのまま役が成立している。役が成立しているが国士無双だとは自分でも信じられない。

中学受験は母の言いなり。上り詰めたスクールカーストは打算の産物。T高校も大学も芸能界も全部あまりに打算的に手段を尽くしていて、本当の自分を見てもらえる場面も自分をさらけ出そうという度胸も1度もなかった。

成功の結果にとらわれている今の環境でここから本当の自分をさらけ出すことは不可能。地位が揺らぐかもしれない不安感に押しつぶされそうになる。

しかし聖人君子を演じることもきつく、過去のことがいつばれるかわからない焦燥感に溢れている。挟み撃ち。逃げ場なし。完全包囲。詰んでる。詰んでるのに玉将だけがまだ動き続けている。滑稽。