「ねえ、雅彦さん」

「ん?」

「私たち、けんかして、倒れて、それでやっと、ちゃんと夫婦になれた気がする」

「ずいぶん遠回りな夫婦だな、俺たちは」

「でも、いいの。遠回りした分だけ、いろんな景色を、二人で見られたんだもの」

雅彦は、つないだ手に、少しだけ、力を込めた。

(倒れたことは、怖かった。二度と思い出したくない朝だった。それでも、もしあの出来事がなかったら、私たちはきっと、本当の気持ちを言い合わないまま、すれ違い続けていた)

その頃、嬉しい知らせも届いた。美咲が無事に大学を卒業し、観光関係の会社に就職が決まったのだ。

「藤乃屋を手伝った経験が、面接でいちばん役に立ったんだよ」と、美咲は誇らしげに笑った。千鶴は相変わらず元気で、今日もまた、新しいマフラーを編んでいる。

そして、半年後の春。

雅彦の検査結果は、医師から「とても、いい数字です」と、太鼓判を押された。診察室を出た時、よし子は思わず、廊下で雅彦の手を握った。雅彦も、その手を、ぎゅっと握り返してくれた。

その夜、雅彦が、よし子の手を引いた。

「ちょっと、来てほしい場所がある」

連れて行かれたのは、裏手の露天風呂だった。二人が、初めて心を通わせた、あの場所。

湯に浸かると、空には、まんまるの月が浮かんでいた。

「よし子。もう一度、君に言わせてくれ」

雅彦が、湯の中で、姿勢を正した。

「あの時、倒れて――俺が一番怖かったのは、死ぬことじゃ、なかった。君を、一人きりにしてしまうことだった。それだけが、怖かったんだ」

月明かりが、雅彦の顔を、やわらかく照らしている。

「だから、もう一度、ここで誓わせてくれ。俺は、もう無理をしない。体を、大事にする。君より先には、絶対に逝かない。おばあちゃんになる君を、ちゃんと隣で、最後の最後まで、見届ける」

よし子は、泣き笑いになった。

「ずるい。それ、私が言いたかった台詞なのに」