【前回記事を読む】目が覚めると妻の姿がなく、仏間から灯りが…見に行くと、妻が前夫の写真の前で泣いていた。その意味が分かってしまい…
倒れた夫と、もう一度の湯けむり
もう一度、湯けむりの中で
あの夜から、藤乃屋の暮らしは、少しずつ、形を変えていった。
雅彦は、働き方を、根本から見直した。宿の仕事をするのは、一日に数時間だけ。重いものを運ぶような仕事は若い従業員に任せ、自分は全体の采配と、彼らの指導に回った。最初のうちは、自分で動けないことが歯がゆそうだったが、次第に「人に任せるのも、悪くないものだな」と言うようになった。若い従業員が、初めて一人で宿を切り盛りできた日、雅彦はまるで我がことのように、嬉しそうに笑っていた。
「一人で何もかも抱え込まないというのは、こんなにも、楽なものなんだな」
雅彦は、少し照れたように、そう言った。
(倒れる前の雅彦さんなら、決して口にしなかった言葉だわ)
その言葉を聞いて、よし子は、胸がいっぱいになった。あの長い夜を越えて、二人は、たしかに、何かを変えられたのだ。
旅館の経営は、東京から戻る回数を増やした大輝が、手伝うようになった。女将業は、節子が、これまで以上に、よし子を支えてくれた。
「あんたたち夫婦は、ほんとに世話が焼けるわね」と口では言いながら、節子の声は、どこか嬉しそうだった。
よし子は、減塩の料理教室に通い始めた。雅彦の体にいい献立を、一から学び直した。
最初は薄味に文句を言っていた雅彦も、「お前の作るものなら、なんでもうまいよ」と、最近ではすっかり素直に、平らげている。
毎朝、二人で温泉街を散歩するのが、日課になった。手をつないで、ゆっくりと歩く。すれ違う商店街の人たちが、「お二人、ほんとに仲がいいねえ」と笑う。そのたびに、よし子は少し照れて、雅彦は少しだけ、胸を張った。
