初回出征のあらまし

昭和十三年五月十五日、私は召集令状を受け、月末には故郷を発って出征した。上海に上陸後、鉄道で南京を経由し、蕪湖(ぶこ)に集結。六月十八日には、荻港で敵のいる海岸に上陸。

八月二十五日ごろ、師団主力に続いて九江に上陸し、廬山西麓の孔村高地で激戦に加わる。九月三日には敵が退却し、私たちの部隊は馬廻嶺(ばかいれい)に進出。その後、第九師団に任務を引き継いで反転し、全林街や蜘蛛山での戦闘を終えたのち、陣家老屋付近で次の作戦に備えることとなった。

この間、九月十日頃から十三日頃までは孔村高地の戦場の整理任務にあたり、帰隊後すぐに第三大隊第一中隊の第九中隊長代理を命じられた。大隊の将校は、大隊長のほか、副官(ただし病気のため後方へ退いていた)、本村少尉、私、そして軍医一名という、わずかな人数しか残っていなかった。

九月二十五日からは、萬老門(ばんろうもん)を通って徳安への迂回作戦が始まった。十月三日には敵の包囲網に突入し、夜襲と突撃を繰り返す。十月十二日には、我が師団司令部との間の台地に展開してきた敵を攻撃する(田麩蘇(でんふそ)西方高地の戦闘)。

十月十七日には、松浦師団長より、楊家山(ようかざん)攻撃の命令を中隊に直接下された。当日は参謀長の意見により作戦は延期となったが、翌十八日には楊家山を占領。
この頃、師団は非常に厳しい状況に置かれていたが、十八日には敵の背後から救援に現れた友軍と連携が取れるようになり、敵は包囲を解いて後退していった。

十月二十三日には、険しい楊家山の頂上から、我々の中隊が師団の殿(しんがり)となって進軍を開始し、雷鳴鼓劉(らいめいこうりゅう)の盆地を抜け、甘木関(かんぼくかん)に出る。ここで、漢口陥落の報を受けた。

その後、修水(しゅうすい)の河孟(かもう)地帯に向かい、十一月三日には洪家山(こうかざん)の民家数軒に迎えられ、数日間滞在。そこから三渓口を通って敵地を抜け、陽新(ようしん)へと迂回行軍を実施した。陽新の町が視界に入ったのは、十二月二十八日ごろのことだったと記憶する。

陽新の手前で、飯野連隊長より命令を受け、中隊を率いて陽新北方約六キロの陽家湾(ようかわん)に進出。残敵の掃討と拠点の確保を担うこととなった。

正月はこの陽家湾で迎え、下旬には陽新へ帰還。次なる作戦への準備に入る。

昭和十四年二月十二日、陽新を出発。木石港の泥濘地を越え、修水河畔・張公渡の警備任務を、百一師より引き継いだ。二月二十八日までこれにあたり、その後、騎兵に替わって修水渡河のための集結地へ移動。

三月二十日、修水を敵前で渡河し、安義、奉新を経て敵を南昌方面へ急追撃。三月二十八日には、師団前衛の尖兵中隊として南昌のやや西方(上流)にて再び渡河。南昌に迫り、記念塔の金色の玉が視界に入る地点で敵と交戦中、連隊副官より師団命令が伝えられ、急遽反転する。我が軍は背後を横断した敵の大軍団の掃討に向かうこととなった。

三月三十一日、茅竹嶺にて敵の収容部隊を撃破。四月二日には再び尖兵中隊として高安に向けて前進し、高安城の城内外に達したが、旅団命令により入城を百四十七連隊に譲ることとなり、そこで停止。作戦は一応の終結を見、四月中旬に奉新に帰還。その後、大邱付近で我が騎兵が敵の攻撃を受けたので、これを救援する。

 

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