山手競馬場で行われている競争には、オーナーズアップ競争というものがあり、それには馬主自身が騎乗しなければならないという規則が設けられている。それもあるからだろう。騎手にも競争前の厳格な規定は設けられていない。

自身が騎乗する予定のビンロウジュとミヅハノメの追い切りで、火事騒ぎの影響が軽微であることを確かめると、滝本は競馬場を出た。

慶応二年に港崎遊郭で起こった豚屋火事の後、道幅が拡張されて二十年ほどが経過した伊勢佐木町は、日本でも屈指の繁華街となっていた。

井原家の現当主の孝喜に雇われている滝本は、昨年の夏から根岸の一画にある、井原家の別荘に住み込んでいた。

今年に入ってからは、馬の見立てから調教、世話、騎手としての騎乗と、競馬に関連した全てのことを任されるまでになっている。そのため、伊勢佐木町を訪れるような時間を、ついぞ取ることができないでいた。

芝居小屋や寄席、商店が立ち並んでいて、ひっきりなしに人が行き交う。そんな通りを戸惑いながらも歩き、八百屋を探した。

程なくして見つかった三村商店という八百屋では、老婆が一人で店番をしていた。その前を行ったり来たりしながら様子を窺っていると、夜になって三村と思われる男が奥から出てくる。滝本は行き先を確かめるべく、跡をつけた。

三村は大岡川沿いの通りを、下流へと向かって歩いていく。橋の前を通り過ぎてすぐのことである。右に曲がった。その先の建物の前には提灯の灯りが二つ、並んでいた。

目的地はそこのようで、提灯を手にする着流しの男たちが開けた引き戸の中へ、入っていく。おそらく、中は賭場なのだろう。

時間帯や場所が伊勢佐木町の賭場であることからして、込みいった話をするとは考えにくかった。

貸元とは明日までに話を付けるべきと考えている滝本には、焦りがあった。しかし、今日のところは諦めるしかなさそうである。

明日の春競馬初日、滝本は第七競走でビンロウジュに騎乗する予定になっているが、追い切りで状態を確認した後は伊勢佐木町へと向かう。

競馬場の正門を出て通りに出る際に右を向けば、火事の現場が見える。現場検証や遺体の収容も終わっているためか、人影はない。炭になった木材が散乱しているだけだった。

早い時間帯に品出しや陳列を行っている姿は見られたものの、以降、三村は奥にこもったままで、店番として立っているのは老婆一人である。

 

👉『惰走は駛走に変わる』連載記事一覧はこちら

【イチオシ記事】妻の姉をソファーに連れて行き、そこにそっと横たえた。彼女は泣き続けながらも、それに抵抗することはなかった

【注目記事】アプリで出会った女性と初めて大人の関係に。最初のデートの時とは打って変わって、彼女のノリは悪く…

 

ゴールドライフオンラインは、表現者を応援するウェブメディアです。
生身の人間が紡ぐリアルな言葉だからこそ、読者の心を揺さぶる力があると確信しています。
あなたも、"表現者"になってみませんか?
ゴールドライフオンライン編集部:glo_henshu@gentosha.co.jp