【前回の記事を読む】火事で死傷者が出た土地の交渉にヤクザから呼び出し――若頭は「金はいらねえ」と言った。しかし、代わりに要求されたのは……

惰走は駛走に変わる

浅田は懐から札を取り出して数えると「しばらく、おとなしくしていろ」と言って、五円を差し出す。北山は、戸惑いつつも札を受け取った。

朝を迎えて、警察の検証が行われている。滝本市蔵がやって来たときの火事の現場は、そんな状態だった。

焦げた臭いが充満しているにもかかわらず、周囲は近隣住人や競馬場の職員、廐務員らで人だかりができていた。

遺体で発見されたのは五人。身元を示すようなものは、元々所持していなかったか、燃え尽きたと考えられる。

おそらくは、昨年の秋競馬開催中、馬券購入代行業で、荒稼ぎした連中であろう。人だかりの後方に立っていると、そうした話が漏れ聞こえてきて大方の事情は飲み込めた。

火事の消火には、競馬場内に備蓄されていた水の一部も使われた。延焼した形跡こそないものの、敏感な動物である馬にとっては異常な事態であり、体調面へ影響を及ぼした可能性もある。

しかも、春競馬初日を明後日に控えていた。廐務員らにしてみれば、火事場見物など長々としている場合ではない。早々に引き上げていく。

昨年の秋競馬初日、滝本は婦人財嚢競走でダンジュウロウに騎乗し、山手競馬場での初勝利を上げた。明後日からは、騎手兼調教師として、本格的に居留地競馬に参加する身でもある。やるべきことは多い。しかし、それを差し置いてでも残るべきと考え、近隣住民の話に耳を傾けた。

どうやら、土地の持ち主は伊勢佐木町で八百屋をしている三村という男であるらしい。元々は豪農の出身だが、若い頃から博打に明け暮れていて、いくつも抱えていた畑の大半を手放している。

火事のあった土地が馬券代行業の店として使われることとなったのも、博打絡みであると考えている人がほとんどだった。

持ち主の三村が言うには「土地は貸しているだけで、いずれ返してもらうつもりでいる」そうだ。

そして、消火活動の最中には「こんなことになった以上、買い取ってもらう」とも言っていたらしい。相手は馬券購入代行業をしていた仙石一家の貸元に他ならない。元々は賭け碁を主なシノギとしていて、野毛と保土ヶ谷を縄張りとしているそうだ。

是が非でも会わなければならない人物。滝本には、自分にとって貸元がそういう人物であるように思えた。